07.31
私と朝日新聞 岐阜支局の25 改めて近藤先生
「憲法特集」で知り合った近藤宏先生には、本当にお世話になった。近藤先生は教壇に立つ傍ら、岐阜県内の教育界に限らず、様々な市民の文化活動前支援するネットワークを張りめぐらし、
「こうしたら、もうちっと、いい世の中になるんじゃなかい?」
という生き方を貫いた人だったからである。
いま思えば、近藤先生は私と知り合ったことで、朝日新聞の活用法を見出されたのではなかったか。使い勝手のいい大道という朝日の記者が岐阜に来たことを最大限、活用しようと思われたたのではなかったか。
地道にネットワークを広げていくのも大切なことである。しかし、マスメディアをうまく使えば、地道な活動だけではなかなか手が届かないところにまでメッセージを送り出すことができる。
いや、私は、近藤先生に「利用された」といっているのではない。出会うべくして出会った2人が、それぞれが使える手駒を出し合って、少しでもより良い世の中にする試みを続けるパートナーになったのではなかったか。いま、そう思う。
前回まで連載した「子ども見つけた」には、全面的に協力して頂いた。その取材で一緒に出張したこともある。私が運転するVWビートルの助手席で、近藤先生は小学校教師として、教育にかけた夢、今の子どもたちの姿を語り続けた。私が、こんな先生の教え子であったら、どんな大人になっていただろう? いまより余程ましになっていたことは確実である。
近藤先生は、だから、よく電話をくれた。
「大道さん、ちょっと話す時間、ない?」
その度に、学校に行ったり、ご自宅を訪れたり。近藤先生の
「ちょっと話す時間」
は必ず記事になる。だから、私は使い勝手のいい記者であり、近藤先生は朝日新聞の活用法を最大限利用した人だった。
例えば、「100円玉の田園交響曲」という記事を書いた。
「本物を、地元で、楽しく聞きたい」
という、揖斐郡池田町の主婦6人が走り回って実現したピアノコンサートである。
当時の池田町は人口約2万人。コンサートなんて開かれたことがない。音楽を楽しむのはレコードに頼らねばならない(まだCDがなかった時代である)。
岐阜市まで足を運んで、プロのピアニストでもある岐阜大学教授のコンサートを聴いた主婦がいた、
「これが本当のピアノの音なんやね」
町に帰って感動を伝えた。
「だったら、町でコンサートを開いたら」
あのピアニストに手紙を書いた。快諾を得た。
音楽会の企画なんてやったこともない6人が走り回った。会場は、音響効果など全く考えていない中学校の体育館。入場料はたったの100円。
当日、3、4歳の子どもから60すぎの高齢者まで750人が「トロイメライ」「乙女の祈り」など、耳に馴染んだ曲が生のピアノで演奏されるのを満喫した。
私は後に、朝日ホール総支配人を命じられた。管理するホールの1つ、浜離宮朝日ホールは世界でもっとも音響効果が優れた室内楽ホールで、連日のようにクラシック音楽の演奏会が開かれた。その責任者として聴衆を迎え、送っているうちに、私はクラシック音楽愛好家に違和感を持つようになった。
「この人たちは、音楽を聞きに来ているのか いや、音学をしに来ているのではないか?」
演奏中は、ホールへの出入りは禁止である。演奏終了後の拍手にも、
「私の前の列に、演奏が終わるとすぐに拍手する人がいる。私は余韻に浸りたい。迷惑だから、しばらく拍手をしないようにいってやって」
そんなクレームが出るのが、クラシックのコンサートである。私の嫌いな人種である。この人たちは音楽を楽しんでいるのか?
それに比べて、池田町のおおらかさはどうだ。体育館? 音響は最悪だろう。子ども? 演奏中に騒ぎ出すのではないか?
それでも、750人がピアノに聴き入った。演奏開始までは体育館を走り回っていた子どもたちも、ピアノ演奏が始まると、聞き耳を立てていた、と私が書いた記事にある。これが音楽、ではないか。
1978年8月2日に掲載された「イチョウの母木 戦傷にめげず 岐阜大付属小で32年ぶり結実」という記事も、近藤先生の
「大道さん、ちょっと話す時間、ない?」
という電話から始まった。
近藤先生が教壇に立つ岐阜大付属小には、昭和20年(1945年)7月9日のB29空襲で半分焼け落ちたイチョウの木がある。焼け焦げたイチョウは間もなく青々とした葉を身にまとうようになったが、実はつかなかった。それが32年たった77年、このイチョウがやっと実をつけた。副校長のKさんがその実を土に埋め、苗木を育てた。翌春卒業する6年生125人に、この苗木を1本ずつ渡す、という話である。
戦争の悲惨さを子どもたちに伝える。何事にもめげずに生き抜く力を子どもたちにつける。それは教育の目的だろう。それを、戦火で受けた傷を克服したイチョウの木に託して子どもたちに植え付ける。素晴らしい教育である。
毎年8月は、メディアがこぞって戦争を取り上げる月間だった。あの無謀で悲惨な戦争を忘れないように書き継ぐのがメディアの責任だとの自覚があったからである。この記事はタイミング良く、確か社会面のトップになった。
それにしても、である。自分が勤める小学校のちょっとした出来事を、歴史と教育という視野から見つめ直し、タイミングを見計らって、
「大道さん、ちょっと話す時間、ない?」
と私に声をかけ、立派な(?)記事にさせてしまうた近藤先生は、凡百のジャーナリスト以上にジャーナリストである、というほかない。
この拙文を書きながら、ふと
「あの125本の苗木は、今頃どうなっているかな」
と懐旧の情に捕らわれた。イチョウは1年で30㎝から50㎝成長するという。だとすると、もう15mを超える巨木に育っているはずだ。
イチョウの寿命は数百年、数千年といわれる。イチョウの苗木を受け取った125人ももう60歳近い。豊かな人生を送っているだろうか。