08.14
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の11 本が読めない
本が読めない、と自分で自分に驚いたのは名古屋経済部に行ってからである。企業の決算書を理解したくて入門書を読み始め、まったく頭に知識が流れ込んでこないことに愕然とした話は前に書いた。
いまは金融担当である。金融とは私の日常生活とはほとんど無縁の世界だから、勉強しなければならないことは山ほどある。知識を身につけようと思えば、まず頼るのは本だ。金融関係の本を何冊か買い、読み始めた。これが読めないのである。目は活字を追うのだが、読んでいるのは日本語なのだが、全く頭に入らない。
困った、本が読めないとなると、無知のまま取材を続けなければならない。少なくとも朝日新聞に入るまでは活字大好き人間であった。学生時代、いつも持ち運ぶカバンには、本が必ず2、3冊入っていた。行く先々で時間さえあれば本を開く私である。いま読んでいる本を読了したら読む本がなくなる、と思うと、どうしても何冊かカバンに入れておきたくなるのである。その私が、本を読めなくなった。何故だ?
考えてみたら、朝日新聞に入って以来、まともに本を読んでいなかった。仕事の忙しさもあった。仕事の楽しさもあった。仕事を終えて、同僚、同じ業界の連中と飲む酒もうまかった。休日は、可愛くてたまらない我が子がいる。いつしか、読書は私の日常から消え去っていた。
そこまでは分かった。だが、本をもう一度読めるようになるにはどうすればいいか。いろいろ考えて、1つの仮説を立てた。読書とは、ひょっとしたら習慣ではないのか? 本から離れて5年もたったから、私の脳みそは「読書」を処理する機能が衰えたのではないか?
この仮説に従えば、理解できようとできまいと、本を読む習慣をつけるしかない。あれこれ考えて、企業小説、と呼ばれるものを読み始めた。企業財務のHow to 本や経済の理論書は読めなくても、小説なら読めるのではないか? と思いついたからだ。城山三郎、清水一行……。それまでは、資本主義社会を前提とした軽薄な小説に深みがあるはずはない、と手にしなかったジャンルである。
これは、読めた。面白かった。面白いから次々に手に取る。
城山三郎の代表柞には、通産省の官僚世界を描いた「官僚たちの夏」があがることが多い。通産省事務次官だった佐橋滋氏がモデルで、日本の経済成長を計画し、推し進めた官僚たちのドラマである。政治家におもねることなく、為さねばならないと信じる道を一直線に進む官僚像には強く惹きつけられた。
「ほう、高級官僚にもこんな人がいたのか」
と目が醒める思いだった。
しかし、最も印象に残ったのは「粗にして野だが卑ではない:石田禮助の生涯」だった。第五代国鉄総裁石田禮助氏の話である。石田氏が国鉄総裁としてどんな事績を残したかは記憶から完全に消えているが、彼が国会で代議士たちに自己紹介した時に口にしたという
「粗にして野だが卑ではないつもり」
という言葉だけは、ずっと頭のこびりついている。私は粗末で大雑把な田舎者である。しかし、卑しくはない。卑しい人間には金輪際ならない。私はこの言葉を
「人としてのあるべき姿だ」
と打たれたのである。そして、できるだけこの言葉に沿うように生きてきたと思っている。どこまで実践できたかは他者の評価に任せるしかない。
清水一行。この人の本も数多く読んだ。驚いたのは「毒煙都市」という本である。何と、我が故郷、福岡県大牟田市が舞台なのである、
戦争末期、大牟田市で集団赤痢が発生し、「爆弾赤痢」と呼ばれた、とは子どものころ、母から聞いて頭に残っていた。大牟田の衛生環境はそんなに悪かったのか、程度にしか思っていなかった。それが、この本によると、軍が秘密化学兵器を大牟田で開発しており、それが漏れ出て周辺住民に赤痢とよく似た症状起こした、というのである。
無論、それは定説ではないらしい。定説になっていれば、母がそのように話したはずである。しかし、考えてみれば、大牟田は石炭と、石炭を原料にした化学工業の町である。その科学技術を使って、軍が毒ガスなどの兵器を開発していたとしてもおかしくはない。その秘密兵器の1つに、吸い込めば赤痢のような症状を出すものがあったとしても考え得ることである。
ほかにも、経済や企業の内幕を描いた小説を読みまくった。読書範囲は徐々に歴史小説、ミステリー、海外のサスペンス、などと広がった。そして、仕事のために読まねばならない経済書も、なんとか読めるようになったのは数年後である。以来、本とは極めて親しい関係を続けている。
読書とは習慣である、という仮説を、私は名古屋で実証したのである。