08.20
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の17 工販分離のメリット
トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併するのか、しないのか。
そういえば、記者連中の間では合併熱が盛り上がっていた。新車の発表会、中間決算の発表会など、トヨタの記者会見があるたびに
「工販は合併するのか」
という質問が出ていた。Su先輩の
「絶対ない」
という言葉を頭から信じ切っていた私は
「バカな質問を繰り返すものだ」
とのんきに構えていた。脳天気だったのはどうやら私だけだったらしい。
しかし、記者会見でのやりとりは覚えていた。この質問に対し、トヨタの偉いさんたちは
「分かれているメリットがあるから別れている」
「いまは工販合併は考えていない」
とまったく同じ答えを、判で押したように繰り返していた。東京で広報課長さんの話を聞くまでは
「ああ、やっぱり合併はしないんだ。完全否定の答弁だもんな」
と気楽に聞き流していた。しかし、いまは違う。私は疑い始めた。同じ答弁が、
「分かれているメリットがなくなったら、いや、一体化することのメリットが分かれていることのメリットを上回ると判断すれば、すぐに合併するということか」
「いま、この時点では工販合併は決めていないが、明日になれば決めるのか」
と聞こえるようになったのである。
トヨタ自動車工業からトヨタ移動車販売が分離したのは1950年4月のことである。いまの業容からは想像もつかないが、当時、トヨタは経営不振のどん底にあった。資金が底をつき、銀行に融資を頼んで回るが、どこも門戸を開いてくれない。なかでも住友銀行は
「トヨタさん、お金というのはねえ、返してから借りるものですよ」
とけんもほろろに門前払いをした。この一言に傷ついた同時のトヨタ首脳は
無借金経営
を目指すことを決意する。銀行なんかの御世話になんかなるものか! というのである。そして、業績が回復してからも、今度は金融取引を開始したいという住友銀行を門前払いする。トヨタ自動車とは、そんな集団である。
この時、救いの手を差し伸べたのが当時の日本銀行名古屋支店長だった。市中銀行の間を走り回り、協調融資団を組んでくれたのである。のちにこの支店長は、トヨタ自動車に役員として迎え入れられる。トヨタは受けた恩義にはきっちりとお返しをする会社でもある。
その協調融資団が融資の条件として出したのが、販売部門の分離だった。生産資金、販売資金を明瞭に分離し、経営管理をしやすくするのがねらいだったと聞いた。
トヨタはこれで息をついた。そして快進撃が始まる。日産を抜き、日本一の自動車会社に成長し、無借金経営を羨まれるようになったのは、自工、自販がそれぞれの判断で身軽に経営できたからだと指摘する専門家も多かった。
それが、工販が分離している「メリット」である。
その「メリット」はいまでも生き続けているのか?
それに、工販はもとは1つの会社で、豊田家の家業である。無理に裂かれた仲を元に戻したいという願いは強いはずだ。この時点で両社の売上はそれぞれ3兆円を超えており、一体化すれば売上は4兆円を上回るといわれた。もう、一体化する時期に来たのか?
私は連日のように、トヨタ役員の自宅を襲った。いわゆる「夜回り」という取材方法である。役員が自宅に戻り、夕食を済ませて一息つく夜の9時頃に訪れて話を聞く。もちろん、アポイントなど取らない。急襲するのである。トヨタ自動車工業の役員が多く住む豊田市までは、タクシーで約1時間。役員の出張などで空振りもあったが、おおむねは自宅にあげていただいて話が聞けた。
当時、トヨタは「金太郎飴」と記者仲間でいわれていた。どこで切っても金太郎が出てくる金太郎飴のように、誰に訊いても同じ答えしか出て来ない、ということである。
確かに、トヨタは金太郎飴だった。誰に会っても
「分かれているメリットがあるから別れている」
「いまは工販合併は考えていない」
という答えしか聞けないのである。往復2時間、1時間話を聞くことが出来たとして3時間の夜間労働である。それなのに、いつも同じ答えしか出て来ない。
「無駄なことをしているなあ」
と思う。しかし、だからといってやめるわけにはいかない。ひょっとしたら、次に会う人が口を滑らせてくれるかも知れないのだ。いや、2度、3度と会っているうちに口が緩むことだってあるはずだ。
ほとんど毎日、午後8時頃になると私は会社に待機しているタクシーで夜回りに出かけたのである。