08.22
私と朝日新聞 名古屋本社経済部の19 悲壮な覚悟
12月に入った。取材は遅々として進まない。いや、遅々でもいい。少しでも進んでくれればなにがしかの手応えはあっただろう。現実には、これほど取材を重ねても、相変わらず私はスタート地点に留まっている。1歩どころか、半歩すら進んでいない。私は遅れて工販合併の取材競争に参加した。同業他社はどこまで走っているのだろう。俺は、追いつけるか?
全く進まない取材の一方で、何故かは分からないが、工販合併はある、という確信は強まる一方だった。新聞記者の感なのだろうか? それとも、あるということを前提に取材をするから、そんな心理に、自縄自縛に陥ってしまうのだろうか?
しかし、まだどこも書いていない。ということは、どこも最後の詰めが出来ていないということだ。トヨタ自動車の首脳から
「ああ、合併するよ」
という言質を取ったメディアは、まだないということである。
だが、このまま推移すれば何が起きるか。
間もなく年が明ける。新聞記者が最も恐れるのは、1月1日の朝刊で抜かれることである。1月1日は夕刊がない。そして2日は朝刊、夕刊ともに休刊である。次の新聞は1月3日の朝刊となる。元日の朝刊で抜かれれば、朝日新聞の読者に同じニュースを読んで戴けるのはうまく行っても1月3日になってしまう。
しかも、誰だって三が日ぐらいは日頃の喧噪から抜け出してゆっくりとくつろぐ時間を楽しみたいはずである。だが、元旦の朝刊で抜かれた記者は、何とか3日の朝刊で同じ記事を書きたい。勢い、正月を家族共々楽しんでいるに違いない取材先を襲わねばならない。取材する方もいやだが、取材される方はもっといやであるに違いない。
元旦の新聞で抜かれるのだけは御免である。
12月も20日を過ぎた。新年が近い。
私は覚悟を固めた。経済部のデスク席に歩み寄って言った。
「申しわけありませんが、工販合併の取材はいまだに言質を取れません。いままで書かないのだから他社も同じだと思います。懸念するのは、どこかの社が元旦の紙面で、言質を取れないまま観測気球をあげることです。裏が取れないまま、『トヨタ工販が合併する見通しだ』などという記事を書くところがきっと現れます」
これは、取材現場の現状分析である。そして言葉を継いだ。
「私は、裏取りが出来ない観測気球のような記事は書きたくありません。このまま行けば、私は言質を取れないまま年を越すかも知れない。そして、どこかの観測気球記事で『抜かれる』ことになるかも知れません。私は裏付けのない記事は書けません。結果的に抜かれることになるかも知れませんが、それを甘受しようと思います」
これは記者としての決意表明である。その上で、もう一言加えた。
「最後の粘りです。私を東京に出張させて下さい。東京の記者があたってくれているのかも知れませんが、自分で東京の取材先に当たってみたい。それでダメなら諦めます。抜かれても泣き言は言いません」
いま考えれば、トヨタ工販合併を朝日新聞が抜かれたからと言って世の中がひっくり返るわけではない。どこかで戦争が勃発するわけでもない。私の社内評価が下がるだけである。もっとも、これも考え物で、私の前任のSuさんはトヨタ—フォードを抜かれながら東京経済部に栄転していった。つまり、ほとんど何も変わらない。
それなのに、なぜこんな悲壮な思いを抱いたのだろか? 出世欲はほとんどなかったから、単なる若気の至り、だったのか? それとも、記者根性とはそんなものなのか?
デスクはいった。
「分かった。東京だろ? 行って来いよ。何かわかったら、すぐに俺に知らせろよ」
こうして私は東京に向かった。1981年12月の25日か26日のことである。師走になって繁華街に溢れていたジングルベルが終演したころだった。