2023
09.26

私と朝日新聞 北海道報道部の7 炭鉱の閉山が相次いだ

らかす日誌

私が札幌にいた1985年から87年という時期、北海道は不況のどん底にあった。造船が振るわない。製鐵がダメ。石炭はエネルギー源の王の座から追い払われて長く、林業も不振。

「道内経済を立て直すにはどうすればいいか」

が最大課題だったが、そんなもの、一朝一夕でいい考えが浮かぶはずもない。

中でも、炭鉱の閉山にずいぶん付き合った。国産の石炭に明日がないことは、誰の目にも明らかだった。そもそもエネルギーの王者の地位は石油に奪われていたし、小さくなった石炭需要も安い海外炭に奪われた。そして何より、度重なる炭鉱の事故。経営が逼迫し、安全対策に回す資金に乏しい以上、事故が避けられなくなっていたのだ。札幌に赴任した直後、夕張市の三菱大夕張炭鉱でガス爆発が起き、62人が亡くなった。

産炭地大牟田の生まれである私に、石炭への思い入れがないわけではなかったが、

「もういい。国内での石炭生産はやめるべきだ」

と考えざるを得なかった。そして、東京経済部の求めで、1ページを埋める

「国内で石炭を掘るのはもうやめよう」

という趣旨の原稿も書いた。

だが、マクロでの判断と、地元に密着したミクロの記事では大きなずれが生まれる。1987年、三井砂川炭鉱が閉山した。そのとき北海道の紙面で書いた記事は炭鉱労働者の不安を全面に押し出した。仕事を奪われ、これからの暮らしの見通しが立たないと不安を訴える人、町が消えてしまうと嘆く町職員、人がいなくなる町でどうやって暮らしていけばいいのだと嘆く商店街。

一方で、国内炭鉱の閉山を進めるべきだと書きながら、他方では、閉山したら困る人がたくさん出る、と書く。何だか自分が2つに引き裂かれたような気がした。

前出のMaさんに

「俺っていい加減な記者だよね。まったく違ったことを書いているんだから」

と話したことがある。

Maさんは、

「しょうがないよ。どちらも正論なんだから。新聞ってそんなものさ」

と慰めてくれたが、さて、あの時私はどうすればよかったのだろう……。

閉山については、強く印象に残った人がいた。歴史年表を見ると、1987年10月に閉山した北炭真谷地炭鉱の社長である。お名前は失念した。

閉山を目前にしたある日、私はその社長とお話しした。それも社長室などではなく、確か、野外での立ち話だった。取材のはずだったが、話はどんどん逸れていき、結局記事にはしなかったように思う。

「聞いてくださいよ。北炭って会社はね、僕等が学生のころは憧れの会社だった。私は国立大学で鉱山を学んだんですが、ほかの炭鉱は上から10番ぐらいの成績でも入れたのに、北炭は3番以内に入ってないとダメだった。だから、その北炭に入ることができたんだから、鼻高々だったんですよ。嬉しかったねえ、北炭への就職が決まった時は。それがねぇ、最後はこ此の始末ですから……」

人生、有為転変という。胸を張って入った会社の、最後の始末をする。どんな思いが胸中を駆け巡っていたのだろう。私は社長の話に惹きつけられた。もっとこの人の思いを聞きたいと思った。しかしその日、時間は限られていた。
もっと聞きたい。とすれば、この手しかない。

「社長、もっと話を聞かせてください。酒を飲みませんか?」

社長は嬉しそうな表情を浮かべた。

「いいですね、是非札幌当たりで飲みましょう」

そう言われて、ふと気が付いた。経営不振が続き、目前に閉山を控えた会社の社長なのである。財布の中身は薄いのではないか?
そう思ったから、口に出た。

「ご馳走しますよ。いや割り勘でもいいです」

社長はニッコリ笑って私を見た。

「大道さん、確かに私は、明日がない会社の社長です。でも、曲がりなりにも北炭真谷地の社長なんです。私がご馳走しますよ。是非飲みましょう」

そのとき聞いた社長の年収は、確か800万円程度ではなかったか。私の年収とそれほどの違いはなかった。
その飲み会は、結局実現しなかった。恐らく社長は閉山に伴うあれこれに振り回されて時間が取れず、なかなかタイミングが取れないことが続いて時間がたち、いつしか2人とも飲む約束をしたのを忘れたのだと思う。

だが、あの時の会話は、何故か私の中に記憶として残っている。新聞記者は様々な人生に出会うことが出来る。生まれ変わっても、そんな仕事がしたいと私は思うのである。