10.02
私と朝日新聞 北海道報道部の13 仕事のあれこれと不倫の話
札幌での仕事に関することでまだ書いていないことをを思いつくままに拾ってみる。
【大晦日勤務】
新聞社には1年365日、1日24時間、人がいないことはない。突発する事件、事故への備えである。だから、大晦日にも人はいるし、大晦日から元日にかけての泊まり勤務もある。
普通、そんな勤務を命じられるのは入社歴が浅く、独り者の若手社員である。家族持ちは、日頃ご無沙汰の家族と一緒に新年を迎えなよ、という配慮である。
ところが、1985年だったか86年だったかは忘れたが、私が大晦日の泊まり番になった。
「えっ、俺が!?」
とムッとしたが、決まったものは仕方がない。黙って受け入れた。これも、あの I の仕業ではないかと疑ったが、証拠はない。
そうか、大晦日から元旦にかけて、私は北海道報道部に泊まり込むのか。あれこれで考えて、一計を講じた。その日、報道部にいるのは私1人である。だったらいいじゃないかと、家族全員を報道部に連れて行った。家族そろって報道部で大晦日の夜を過ごそうというのである。
狭苦しい月寒の住居と比べ、報道部のフロアは広い。子どもたちは自由自在に走り回ることができる。当時、長男は5年生か6年生、長女は3年生か4年生、次女は幼稚園生であった。
子どもたちは喜んだ。跳ね回っているうちにコピー機に気が付いたのは、確か長男である。
「お父さん、これ何?」
「それはコピー機といって、書いたものをそれに入れると、同じものが出てくるんだ」
「ふーん、使ってみていい?」
「おう、どんどん使え」
子どもたちは競うようにコピー機を攻め始めた。やがて自分の手を置いてスタートボタンを押す。
「あ、僕の手が写真になった!」
長女も次女もやってみる。
「ねえ、顔も映るかな?」
「映るさ。やってみるか? ただ、強い光が出るんで、目はつぶっているんだぞ」
背が届かない次女は私が抱え上げた。こうして我が家の3人の子どもたちは、自分の手、顔をコピーした紙を沢山手に入れた。
報道部のソファで、自宅から持ち込んだ携帯コンロで鍋料理を家族5人で楽しんだ。家族が月寒の家に戻ったのは子どもたちが眠気を訴え始めた10時頃ではなかったか。
お陰様で、といおう。I の嫌がらせだったかどうかは不明だが、おかげで我が家はあまり体験できない大晦日の夜を楽しむことができた。
【社会党】
社会党の道本部を取材したのだから、何かの選挙を取材していた時のことである。それぞれの候補のプロフィールを聞いていたら、取材相手がある候補をくさし始めた。とんでもない男だというのである。
「しかし、候補者というのは社会党を代表して有権者の審判を受けるのでしょう。そんな変な男を候補者にしていいのですか?」
記者としては当然聞くべきことである。
「ま、建前上はそうですよね。でもね、組織には組織の事情がある。この男はある労働組合から『こいつがいると組織がバラバラになる。何とかならないか』って訴えがあったんです。だったら、そいつを議員にしちゃえ。議員になったら組合に口を出すことも減るはずだから何とかなるんじゃないか、って決めたんですがね」
国であれ地方であれ、議員とは「選良」と呼ばれる人達である。みんなに幸せをもたらしてくれる善き人として選ばれるというのが、民主主義の立て前である。
それなのに、労働組合の困り者を議員に仕立てて組合から排除する? 社会党ってそんな政党なのかよ!?
日本共産党とは違う左翼として、社会党には幾ばくかの信頼感を持っていたが、これじゃダメだ。私は社会党を見放した。その後、何かの雑誌で、社会党は第2自民党として利権あさりに余念がなかった、と読んだことがある。ああ、それもあり得るな、と思ったのは札幌で聞いた話が記憶にこびりついていたからからだろう。
その後社会党は社民党と党名を変え、まるで落語「死神」に出てくるロウソクのように、今にも消えてしまいそうである。仕方あるまい。
【広報という仕事】
「道内経済面」を作り始めた私は、居場所を「道経連」(北海党経済連合会)内の記者クラブに置いた。企業関係の情報がここに集まるからである。しばらくした不思議なことに気が付いた。
「道新さん(北海道新聞)さんいらっしゃいまいすか?」
と記者クラブに入ってくる連中が多いのである。何をするのかと見ていると、道新の記者を相手に説明を始める。これから出す新製品の説明が多かった。
ある日、北海タイムスの記者がまなじりを決して、道新を尋ねてきた男に噛みついた。
「ここはね、経済関係の各社の記者が集まってるんだ。何でほかの記者にも広報資料を渡さないんだ? 道新だけに説明したいんなら、ほかの場所でやってくれ!」
当時北海道新聞は全道で100万部を超える部数を誇っていた。朝日も読売も20万部前後である。北海道では圧倒的な王者だった。だから企業の広報マンは、道新にさえ掲載されればいい、と考えたのだろう。浅はかである。どうせ道経連の記者クラブに顔を出すのである。全社を相手にレクチャーすればいいではないか。道新には遙かに及ばないとしても、道新ではなく、朝日、読売、いや北海タイムスを読んでいる読者もいるのだ。その人たちには情報を届けなくてもいいというのか。
北海タイムスの記者は怒ったが、私は歯牙にもかけなかった。いいではないか、そんな阿呆な会社を相手にする時間が私にはない。勝手にやってくれ、と放っておいたのである。
【不倫】
仕事の話ではないが、道経連の記者クラブの話を書いていて、ふと記憶が蘇ったのでここで書いておこう。不倫の話である。
この記者クラブで、朝日の席の隣は読売の席だった。そこに1人の女性記者がやって来た。Toさんといった。まだ20代、独身で、今でいえばセクハラめいた話を仕掛けると、頬をポッと赤らめる女性だった。
「まあ、ウブを絵に描いたようなお嬢さんだな」
と発言を控えめにした。
そのうち仲良くなり、何度か昼食を一緒にした。ある日である。そのウブと見えたToさんが突然いいだした。
「大道さん、不倫ってどう思います?」
えっ、君がそんなことを聞くか? 似つかわしくないんだけどな。が、問われたことには正直に答えるしかない。
「それも恋愛の1つでしょう。たまたまどちらかに伴侶があった。だけどねえ、伴侶がある人に恋情を持つこともあり得るのが人の世だ。じゃなかったら、世の中の恋愛小説はありえないんじゃない?」
そんなものですかね、と彼女はいった。
そのころ、読売の席には男性記者も来るようになった。私と同い年、2人の子持ちであった。
「はあ、朝日は1人体制なのに、読売は2人がかりで道内経済を取材するのか」
程度の感想しか持たなかった。
私の目には霞がかかっていたのか、と衝撃を受けたのはそれからしばらくしてからである。ある夕刻、私は記者クラブに向かっていた。少し離れたところに見知った顔があった。Toさんとその男性記者である。2人は読売の記者だから一緒にいるのは不思議ではない。衝撃をうけたのは2人が手を繋いでいたことである。そして読売新聞に向かって歩いて行った。
「えっ、あいつら、そんな関係?」
ということは、彼女が私に問うた質問は一般論ではなく、具体論だったのだ!
2人手を繋いで会社に向かう。ばれないはずはない。読売社内で問題になったらしく、やがて人事異動が発令された。Toさんは埼玉県の支局に行く。男の方は北見通信局である。読売新聞は人事異動で2人を引き離した。
一件落着。だったのだろうか?
それからずいぶんたって、私はToさんと東京・銀座(だったと思う)でバッタリと顔を合わせた。
「おう、久しぶり。その後どうしてる?」
と聞くと、
「ええ、元気ににやってます」
と明るく答えて歩き去った。
またそれからしばらくして、文藝春秋誌上で彼女の名前を見た。肩書きはフリーのルポライターとあった。ふうん、彼女は読売を辞めてフリーになって活躍してるんだ。でも、北見に飛ばされた男の方はどうなったんだろう? その後名前も聞かないが。
女って強いな。
そんな感想を持った私であった。