10.31
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の19 メキシコの空港で激しい腹痛に襲われたのです
しかし、である。入国の際のゴタゴタから始まって、メキシコは思い出深い国である。
メキシコシティ市内でタクシーに乗った。車はあのかぶと虫のような形をしたフォルクスワーゲン・ビートルである。ビートルは2ドアの車だ。タクシーには不向きだろうと思ったが、助手席側のドアを開けて納得した。助手席が取りはずされていている! これなら2ドアでも、難なく後部座席に乗り込むことができる。
その後部座席に腰を下ろして、思わず声を出しそうになった。子どもがいる! ダッシュボードの下に子どもが座り込み、ジッとこちらを見ているではないか! この運転手の息子に違いない。
「なんでこんなところに子どもがいるのか?」
と問いただす語学力は私にない。じっと子どもと目と目を見交わすだけである。ひょっとしたらこの運転手、妻と離婚をしたのか? 妻が子を置いて出ていく。残された夫はまだ学齢期ではない子どもを1人家に残して仕事をするわけにはいかない。
「このダッシュボードの下でジッとしてるんだぞ!」
と言い聞かせて連れ歩いているのではないか?
それとも奥さんが病に倒れて子の面倒を見ることができないから、連れ歩いているのか?
それとも……。ただただ想像を膨らませるしかない情景である。
私を脅しあげたのは、日本企業のメキシコシティ駐在員だった。またまたコピペで当時の様子をお伝えする。
翌日、ある日系の会社を訪問した。用談が一段落したとき、対応してくれた方が、親切を絵に描いたような顔でおっしゃった。
「大道さん、メキシコは初めてですか?」
「はい、初めてやってきました」
「だったら、この国のことはあまりご存じないと思いますので、これを読んでおいて下さい。メキシコに来た我が社の全社員に渡しているものですけど」
差し出されたのは、社内でプリントしたに違いないパンフレットだった。
「メキシコで暮らす上での諸注意が書いてありますから、時間ができたときに読んでおいて下さい」
事務所を辞し、ホテルに戻る車の中で、いただいたパンフレットをありがたく読んだ。
読み進むうちに、何という国に来たのだろうと、我が身をはかなんだ。
・ 生水は絶対に飲まぬこと。
(コメント)
この程度は、海外旅行の常識である。水中で生息する菌類が、日本とは違うからだ。現地の人には耐性ができあがって無害になっている菌も、その菌と初対面で耐性がない日本人には、とんでもないいたずらをしてしまう。
・ 病気になっても、絶対に病院には行かないこと。
「………」
詳しく読んだ。病気になっても、絶対に救急車などを呼んではならない。死ぬ危険がある。病気になったら、まず会社(私が訪問した会社)に連絡すること。治療する病院などは会社で手配する。ご丁寧に、休日に発病した際の緊急連絡先も書いてあった。この会社のメキシコ駐在員は、24時間、365日態勢で、誰かの発病に備えている!
のっけからこれだけ脅されれば、充分である。滞在中、生水と発病には、細心の注意を払った。避けられる災難は何としてでも避ける。知恵とは、そういう行為を指す。
ところが、である。細心の注意を払ったはずなのに、これからメキシコシティを発とうという日の早朝、私は空港で激しい腹痛に襲われた。これもコピペでお伝えする。
いよいよ明日、メキシコシティを発つ。この間、私の健康管理は完璧であった。生水はもちろん口にしない。それどころか、水割りでさえ飲まなかった。
「氷が危ない」
と言われていたからである。おかげで、例の医療緊急連絡網のおかげを被ることもなかった。無事なまま、明日発つ。
朝。
ホテルのレストランに降りていって、トーストにスクランブルエッグ、それにサラダを食べた。ホットコーヒーを頼み、水はミネラルウォーターである。
昼は、Aさんとうどんを食べた。
夜は、現地でお世話になった日本人の方が、送別会を開いてくださった。
「どうせ明日は飛行機でしょう。中で眠ればいいんだから」
と、2次会、3次会まで連れて行かれ、しこたま酒を飲んだ。飲んだが、水割りだけは避けた。
健康なまま、メキシコシティを離れたい。
飛行機は午前6時半発であった。午前4時半ごろから荷造りを始め、5時にはホテルをチェックアウトして空港に向かった。支払いには全てクレジットカードを使った。
空港に着き、出発時間を待つ。すべてが順調だった。次の目的地は、カリブ海に浮かぶ島、グランドケイマンである。グランドケイマンには、観光用の潜水艦がある。仕事を手早く済ませ、潜水艦に乗るぞー! 黄色い潜水艦だったら楽しいな。
(注)
黄色い潜水艦=Yellow Submarine
The Beatlesの「Yellow Submarine」はご存じですよね?
異変が生じたのは、間もなくだった。腹が、シクシク痛い! 胃ではない。これは腸である。下腹部のあたりが、間欠的に締め付けられるような痛みを感じる。
???
このようなときは、何を置いてもまずトイレである。中のものを出すに限る。
(余談)
これは、我が妻殿の医療行為である。子供が
「腹が痛い」
と訴えると、妻殿は
「トイレに行ってウンチしてきなさい」
と指導されておった。
亭主である私が、メキシコシティという異境の地で、妻殿の医療指導に従う羽目に陥ろうとは思わなかった。
駆け込んだが、あまり出ない。出ないとなると、無理して出すすべはない。仕方なく、トイレを出て、飛行機を待つ。
当初は20分に1度程度だった痛みが、15分に1度程度になった。痛みから痛みへの間隔が、だんだん短くなった。
いかん。これは本格的な腹痛だ!
が、飛行機の時間は刻々と迫る。この飛行機に乗らないことには、次の目的地には行き着けない。グランドケイマンでの仕事の約束も、すでにたくさん入っているのである。
痛むときには、患部を暖めるに限る、と私は信じている。このような際、何をもって暖めるか? アイリッシュコーヒーが用意できないとなると、自らの手のひらしかない。私は、左手をパンツの中に突っ込み、臍から下腹部を暖める姿勢をとった。その姿勢のまま、荷物を持って機中の人となった。緊急時である。恥も外聞も気にするゆとりはない。
シートに座り、シートベルトを締める。やがてアナウンスがあり、飛行機は滑走を始め、やがて大空に飛び立った。
そのころ、我が痛みのリズムは、5分間隔にまで縮まっていた。
「あれほど注意したのに、何が悪かったのか?」
痛む腹を片手で温めつつ、私は必死に犯人探しを始めた。しばらく考えて、これしかないという真犯人に思い当たった。
(クイズ)
ヒントも犯人も、すべてこれまでの文章に出ています。犯人は何だったでしょう?
サラダである。生野菜である。いや、野菜そのものではない。ホテルのレストランは、生野菜を水で洗って出したのに違いないのである。洗った水が、レタスに、トマトに残っていたに違いないのである。
(余談)
どうです、あなたの推理は真犯人に行き着きましたかな?
「糞っ! 昨日の朝食べた、あのサラダか!」
犯人は分かった。が、犯人が分かっても、逮捕するわけにはいかない。取調室で動機を追及することもできない。腹立ち紛れに、爪の下に爪楊枝を差し込む拷問をする機会もない。とにかく、何をしても腹の痛みが引くわけではない。犯人当ては無駄な努力なのである。
やがて私は、座席で腹を抱くようにして全身を丸め、目をつむった。冬眠中の熊はこのような格好をするのであろうか?
飛行機は、腹痛に苦しむ私を乗せたまま、巡航速度で次の目的地に向けて飛び続けた。
このころ、私は日本を離れて4週間近くになっていた。恐らく、旅の疲れが蓄積し、体力が落ちていたのも一因だったのだろう。私は痛み続ける腹を抱えながら、グランドケイマンに向かった。そうするしかなかった。