2023
11.08

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の27 野村證券の社長、会長に食い込め!

らかす日誌

「Tokyo Money」の連載が終了したのは1987年12月21日・日曜日である。札幌から東京に帰任したのが5月。それから8ヵ月の長丁場がやっと終演した。この間、ほとんど休みも取らずに取材、執筆に追われた。私は

「早めに冬休みに入り、年明けもゆっくりと休みたい。そう、2週間ぐらい休みを取ろう」

と1人思っていた。それほど、心身ともに疲れていた。

その夢が打ち砕かれたのは22日、月曜日である。
週明けのその日、連載が終わり、持ち場もない私はほかに行く場もなく、珍しく会社に顔を出した。Ha部長がいた。

「ああ、大道君、ご苦労だったね。いい続き物だった」

部長はにこやかに語りかけてきた。まあ、確かに苦労をした。大変だった。だが、やっと終えた清々しさはある。あとは、長期の休暇を取る許しを得るだけである。
そんな言葉を口にしようとしたときだった。

「それで大道君、明日から証券業界を担当してくれたまえ」

まあ、連載は終わったのである。だとすれば、何かの担当部署を持つ記者に戻るのは当然のことである。が、私にはショックだった。

①この8ヵ月、ほとんど休んでいない。それなのに、明日から証券業界の担当? 長期休暇は取れないの?

②証券業界? 私は金で金を生むのを仕事にしている証券業界は嫌いである。株屋とは万事金の世界と割り切る下劣な者どもが集うところではないか。尊敬できず、好きにも慣れない連中を取材する? 勘弁してよ!

こんな思いが沸き上がって来た私に、部長はさらに追い打ちを掛けた。

「君に3ヵ月の時間を与える。その間に、野村證券の社長、会長、どちらでもいい。電話1本で情報が取れるようにしてくれ」

!!!

あのー、お言葉ではございますが、という言葉が喉までせり上がってきた。
せり上がって来た言葉をさらに続ければ、こうなる。

①私は株屋が嫌いである。仲良くなりたくはない。

②にしても、だ。野村證券といえば、いまや世界に羽ばたく証券会社である。その社長、会長から電話1本で情報を取る? 無理無理。40にもならない私にそんなことができるはずがあろうか。

③よって、この業務命令は受け入れがたい

だが、私の口から現実に出て来た言葉はこうだった。

「わかりました。やってみます」

無理編にげんこつと書いて「上司」と読むのがサラリーマンの世界である。そうとしかいえないではないか。

返事をしてから考えた。野村證券の会長。社長は田淵節也、田淵義久両氏である。同じ田淵姓ではあるが縁戚関係はない。2人は、大タブ、小タブと呼び習わされている。
このうち、会長の田淵節也氏については、深く食い込んでいる記者が2人いると聞いている。日本経済新聞のNa記者と、朝日新聞経済部のTsuさんである。2人は日比谷高校の同窓生(Tsuが先輩。Na記者はその取り巻き、子分だったとあとで聞いた)である。ここに私が割って入るのは困難だろう。加えて、すでに朝日新聞記者で食い込んでいる人がいるのだから、私までもが食い込む必要性は薄い。

「よし、私のターゲットは田淵義久社長、小タブだ!」

私はそう心に決めた。
決めたのはいい。だが、相手は海千山千、世界の野村證券を率いる人物である。その懐に食い込む? どうやったら食い込める?
まったくアイデアは浮かばない。五里霧中である。どうしたらよかろう?

こうして私の証券業界担当が始まった。