11.09
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の28 野村證券にあいさつに行った
新しい業界、企業を担当する。まず行うべきは、あいさつである。そして、企業を知るにはまず社長を知らねばならない。
翌23日、私は野村證券の広報部に足を運び、
「今日から証券業界担当になった大道です」
と名刺を配りながらあいさつし、
「まず、田渕社長にお目にかかったことがないので、ご挨拶の時間を頂きたい」
と告げた。
このころ、日本経済にバブルが膨らんでいた。金融市場は空前の活況を見せ、証券会社は大いに利益を上げていた。街で食事をしていても
「お前、どこの株持ってる?」
「この間〇〇の株を売って30万円儲かったよ」
などというサラリーマン同士の会話が頻繁に耳に入る。
証券業界担当記者は兜町の証券取引所に出入りするための独特のバッジをスーツの襟につける。タクシーに乗ると目ざとくそのバッジを認め、
「なんかいい株ありませんか?」
とタクシー運転手が聞いてくる。みんなが金に踊らされている時代である。そんな質問を受けると、私は
「あなた、テレビはどこのメーカーのを使ってる?」
と逆に質問し返した。ナショナル、と答えが出れば
「じゃあ、松下電器のファンなんだ。だったら、松下株を買ってずっと持ってた方がいいよ。株って売り買いを繰り返して金を儲けるんじゃなく、好きな企業の株主になって応援し、配当を受け取るものだと思うけど」
と応えるのが常だった。
そもそも、私は株取引をしたことがない。どのようにしたら売り買いできるか、株券とはどんな形をしているのか、何が書かれているのかも知らないド素人である。私に株投資の相談をしても無理というものだ。
話をもとに戻す。
広報部長はTaさんといった。私より数歳上か。気のよさそうな人だった。
「ああ、そうですか。いや、証券業界の担当は大変だと思いますけど、がんばって下さい」
と励まされ、
「社長のアポイント、手配しておきます。取れたらお知らせします」
と約束してくれた。
田淵社長=小タブとの面談が実現したのは、年明けの1月14日だったと思う。私は日本橋の野村証券本社に向かった。社長室は確か2階だった。古い建物だが、役員フロアのロビーは広々としている。壁には油絵が掛けられている。私に判別する能力はないが、きっと名のある画家が描いたものだろう。
やがて社長室に案内された。部屋の一方の端に社長が使う大きなデスクがあり、部屋のほぼ中央に高級そうなソファを備えた応接セットがある。私が窓側の席に腰を下ろし、田淵社長がそれと向き合うソファに座った。
田淵さんは腰をソファの奥にまで入れるのではなく、前の方にちょん掛けして背もたれに寝そべるだらしない座り方である。そして足を組み、私が差し出した名刺を顔より上に持ち上げて仰ぎ見るようにした。
「ほう、君は大道君というのか」
それから何を話したのかは記憶にない。証券知識がほとんどない私のことだから、きっとつい先日まで「Tokyo Money」という企画で国際金融の取材をしていた。41日間世界一週の旅をした、などとしゃべったのではなかったか。ご挨拶は1時間ほどだった。
田淵さんが初対面の私にどんな印象を持ったのかはわからない。
私が受けた田淵さんの印象は
「やっぱり株屋の親分か。品がないな。これからこんな奴に食い込む努力をするのか? ああ、すまじきものは宮仕え、だね」
そう、いい印象はまずなかったのである。
ところが、後に田淵さんは、私が取材で知り合った人々の中で、最も敬愛する人になる。その思いはいまだに持ち続けているのだから、人の第一印象なんてあてにならないものだ。いや、第一印象一般ではなく、私が受けた第一印象の問題点かもしれないが。
私が田淵さんを敬愛するにいたる経緯は、追々書いていくつもりである。
対談を終えて社長室を出ると、田淵社長が後ろからついてきた。エレベーターの前まで私に付き添ってくる。
「あ、私、社長にお見送りされるほどの玉じゃありません。そうぞお部屋にお戻り下さい」
私は恐縮しながら、そういった。
田淵社長は
「私のところに来てもらったお客さんは、こうして見送るのが野村證券流なんだよ。気にしないで」
といって動かない。
やがて到着したエレベーターに乗り込むと、田淵社長は深々と頭を下げた。
「俺の第一印象、どこか間違っていたか?」
いま考えれば、私にそんな思いが芽生えたのはこの時だったのかもしれない。だが、私の頭には、証券会社=下品、という図式が、まだどっしりと値を下ろしていた。