2023
11.10

私と朝日新聞 2度目の東京経済部の29 「梅原猛は革命家だから好きだ」

らかす日誌

野村證券の社長、会長から電話1本で情報が取れる体制を作る。許された時間は3ヵ月。

1987年末、そんな難題を課せられた私は、どうすれば課題をクリアできるかを考え続けた。どう考えても、これぞというアイデアは浮かばない。それまで、それに似たことを1度もやったことがないから、仕方がないことである。妻女殿と結婚したのだって、どちらかといえば私が落とされた側なのだ。

私は腹を決めた。親しくなるには何度も顔を合わせるしかない。顔を合わせたからといって相性というものがある。顔を合わせる頻度と親しさの度合いが正比例するとは限らない。だが、たまにしか顔を合わせなければ、親しくなることは絶対にありえない。できるだけ顔を合わせ、私が墨守する「フリチン主義」(自分の全てをさらけ出す)で進むだけだ。それでダメなら諦めるしかない。

とはいえ、相手は第野村證券の社長である。そうしばしば懇談できる時間をもらえるはずはない。そこで、私は決めた。

「1週間に1度は、田淵社長と会う」

手段は、新聞記者が得意とする夜討ち・朝駆けである。昼間は会えなくても、夜、あるいは出勤前なら会うことができる。

そこまで考えて、次の戦略を練った。まず、会社であいさつするまでは夜討ち・朝駆けはしない。顔も見たことがない記者が自宅に押しかければ不快感を招きかねない。夜討ち・朝駆けをするのはあいさつをすませてからである。

1988年1月14日、私はあいさつを済ませた。行動を起こすときが来た。私はその夜、会社差し回しのハイヤーで、渋谷にある野村證券社長公邸の前にいた。時間は午後10時。社長はまだ戻っていない。

「あの車かな?」

という黒塗りのセダンが社長公邸前に横付けしたのは10時半頃だった。私はハイヤーを飛び出した。

「今晩は。お待ちしていました」

車から降り立った田渕社長に声をかける。不審そうな表情で田淵社長が私を見た。

「……、んん? あー、えーと、君は……」

「昼間お会いした朝日新聞の大道です」

「あ、ああ、そうだったな、大道君、どうした?」

「はい、もう少しお話しを伺いたいと思いまして」

「そうか。ま、上がりなさい」

社長公邸は公的スペースと私的スペースに分かれていた。私が案内されたのは公的スペースの中心ともいえる応接室である。いろいろな人がここを訪れるのだろう。社長業も大変である。

「ちょっと待っててくれ。着替えてくるから」

田淵社長はそういうと、私的スペースに消えた。待つしかない。

私は

「はい、もう少しお話しを伺いたいと思いまして」

といって上がり込んだ。しかし、私には聞きたい話しなどなかった。そもそも、証券業界を担当して間がない。株の取引にも、証券業界の事情にも知識はゼロに近い。何を質問したらいいのか、まるで見当がつかない。さて、応接室に上がったのはいいが、どんな話をしたらいいのだろう?
待つ時間、応接室内を見渡した。私が座ったソファの後ろに書棚があった。当然本が並んでいる。何の気なしに見ていたら、梅原猛の本が10数冊並んでいた。梅原猛は哲学者、評論家、独特の視点を持つ歴史学者である。とはいえ、当時の私はただ名前を知る程度で、著作はほとんど読んだことがなかった。
ふーん、野村證券の社長とは、こんな本を読む人なのか。よし、これを話題にしてみるか。

やがて、パジャマに着替えた田淵社長が応接室に姿を現した。奥様がビール(ウイスキーだったかも)を持って入って来られる。ご挨拶をすると、奥様はすぐに部屋を出られた。

「昼間会ったのに、どうしたんだ?」

と突っ込まれたが、そんな問いに対する答えは持ち合わせていない。ここまでやってきながら、さて、何を話そうか、と考えているのが私なのである。質問は無視して、強引に私の道を突っ走る。

「ところで社長は梅原猛がお好きなのですか?」

多分、そんな質問をされたことはそれまでなかったのだろう。瞬時、田淵社長は狐につままれたような顔をして黙った。

「ああ、好きだが、どうしてだ?」

「いや、ここでお待ちする間に、後ろの書棚を見たら梅原さんの本が沢山並んでいたものですから」

「ああ、そうか。うん、好きだ」

「梅原の何がお好きなんですか?」

「ん? 梅原猛という人は革命家だ。だから好きなんだ」

今度は私が言葉を失う番だった。革命家だから好き? おい、おい、ちょっと待ってくれ。証券会社というのは資本主義という経済体制のど真ん中にいる会社じゃないか。であれば、「革命」を最も嫌う組織ではないのか? 資本主義が永続することを願うのではないか? 証券業界で押しも押されもせぬN0.1企業の野村證券を率いる社長が、

「革命家だから好き」

だと?
この人、いったいどんな人なんだ?
一見、パラドックスとも思える言葉に、私は田淵義久という人間に大きな関心を持った。この人をもっと知りたいと願った。

「大道君、だったね。私が知る限り学界というところは実に不自由なところだ。教えを受けた先生の学説は絶対に覆してはならないという暗黙の縛りがある。だからほとんどの学者はその範囲内でチマチマと重箱の隅をほじくるような研究をする。ところが梅原は違う。どれほどの大家の説があろうと、自分で正しいと思えば、平気で覆して自説を述べる。彼は革命家だよ。だから好きなんだ」

面白い。田淵義久という人物、実に面白い!

「変えることはいいことだよ。会社というものは日々変わらなくてはならない。そうしなければ時代に取り残されてしまう。だからな、私は少なくとも週に1回は会社内を見て回る。この1週間で野村證券のどこがどう変わったかを見て歩く。どこにも変わったところが見付からないと、その日1日不機嫌になってしまうんだ。変えてうまく行かなかったら元に戻せばいい。とにかく、変えることは大事なんだよ」

私は田淵義久さんに心からの関心を持った。よし、この人の懐に飛び込んでやる! この人を知り尽くしてやる!

先に、馬原猛の本はほとんど読んだことがなかったと書いた。そんな私は翌日書店に走ると、梅原猛の本を大量に買い込んだ。聖徳太子と法隆寺にメスを入れた「隠された十字架 法隆寺論」、歌人として著名な柿本人麻呂は女帝・持統天皇によって流罪に処せられ刑死したという新しい見方を打ち出した「水底の歌 柿本人麿論」、「地獄の思想」、「聖徳太子」……。

人を判断するには、その人の書棚を見ればよいという。私は田淵義久さんの書棚を見た。であれば、そこに並んでいた本を読むのが、田淵さんを知る第1歩である。私は読書に熱中した。

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田淵義久さんのことを書き始めた今日、2023年11月10日、田渕さんが亡くなったことを知った。8日のことで、91歳だった。不思議なご縁である。
ご自宅に電話を差し上げるのはご迷惑だろうと思い、電報を打った。

「田渕さん、早すぎです。もう智久君のところに行くのですか。あなたは私が最も敬愛する先輩であり、人生の師でした。もう一度ぐらい酒を飲みたかった。いまはご冥福を祈ります。元朝日新聞記者・大道裕宣」

智久君とは、田淵さんのご長男である。後にらかす日記にご登場いただくが、まだ私が桐生支局長のころ、自宅の風呂場で転倒して亡くなった。あわてて葬儀に駆けつけた私は、打ちひしがれた田淵さんの姿に深い悲しみを感じた。言葉を交わす時間もなかったが、あれが田淵さんにお目にかかった最後の機会となった。
改めて冥福を祈りつつ、田渕さんのことを書き継ぐ。