11.11
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の30 「長男に会ってやって欲しいんだ」
最初に。
昨日書きわすれたことがあった。私は田淵社長に向かって
「私はあなたの訃報を書く記者になりたい」
といったような気がするのである。
経済界の著名人が亡くなると、経済面で評伝を書く。評伝だから誰もが知っているようなことばかり並べても読んではもらえない。深く食い込んでいる記者にしか書けない文章というものがある。それを私が書きたいと思った。
もう朝日新聞を離れた身だから、田淵さんの評伝を書く仕事が私に回ってくるはずはない。だが、今朝の朝日新聞には死亡記事が小さく出ていただけで、経済面に田淵さんの評伝はなかった。それが、朝日新聞の田淵さんに対するいまの評価らしい。
ま、人間、世評と実質は違うものである。多くの人が田淵さんを忘れても、私は死ぬまで記憶に止めるはずである。
✖️ ✖️ ✖️ ✖️ ✖️
私が証券業界を担当すると、数人の先輩記者が代わる代わる教えを垂れに来た。無論、彼らは親切心のつもりである。彼らは異口同音に
「野村證券に食い込むのは諦めろ」
といった。何故なら、野村證券は日本経済新聞とつるみ、株式市場を思いのままコントロールしているのだという。
「日経は記事にする情報が取れ、野村は日経の記事で相場を動かすことができる。お互いにメリットのある結び付きだから、それに割って入ることは出来ない」
といった。中には、
「だからね」
という人がいた。
「俺はさ、野村と日経がつるんでいるんなら、大和証券、日興證券、山一証券の3社と朝日新聞がつるんで野村—日経包囲網を作ろうとしたんだ」
ふむ、野村證券とはそんな会社なのか。何も知らない私は、彼らの話を素直に聞いた。
しかし、である。部長命令は、野村證券の社長、会長から電話1本で情報を取れる関係を作ることである。大和、日興、山一にどれほど足を運ぼうと、田淵義久・野村證券社長との関係が深まることはない。
ありがたくはあるが、意味のないアドバイスだった。むしろ、
「野村證券って、そんなに敷居が高い企業なのか。そこに私が食い込むことってできるのか?」
という懸念材料が1つ増えただけだった。
そんな思いを抱えながら、私は
「週に1度は田渕社長に会って話す」
という原則を実行した。田渕社長の行動日程を割り出し、夜は自宅にいるはずの日に夜回りをかけた。どうしても夜に会えないときは、朝駆けをした。顔を見なかったのは、田渕社長が海外出張に出て日本にいない週程度である。
株式市場の話なんてあまりしない。いってみれば、毎回雑談である。それにしても、まだ40にもならないチンピラ記者の雑談に、天下の野村證券の社長がよく付き合ってくれたものだと思う。
あるときは野村證券の退職後の待遇の話をした。確か特ダネだったと思うが、私は野村證券が終身年金鮮度を拡充したという記事を書いた。新制度では、公的年金と会わせて月額50万円を越したのである。年額にすれば600万円。
その夜、社長宅を襲った私は
「さすがに利益日本一の会社ですねえ。羨ましい」
と話しかけた。田渕社長は
「俺はな、新入社員からのたたき上げだ。社員が何を欲しがっているかは体に染み込むようにわかっている。それを実現してやるのが社長の仕事だろう」
という。私はさらに追いかけた。
「朝日新聞の社長だって、平記者からのたたき上げですよ。でも、朝日の終身年金は、とて野村證券には届きませんが」
うん、私だって終身年金50万円は欲しいのだ。
田渕社長は言った。
「当たり前だ。俺は朝日新聞の社長よりずっと優れた経営者で、遙かに働いているからな」
言われればその通りである。2人で大笑いした。
またある日。そろそろ時計の針が12時を回りかけた。
「ずいぶん遅くなりました。そろそろ失礼します」
と席を立ちかけると、田渕社長が引き止めた。
「何だ、もう帰るのか。せっかく俺がいい気持ちになってきたんだから、もう少し付き合えよ」
そう言われれば、私は腰を落ち着けざるを得ない。トイレを済ませて席に戻ると、いつになくしんみりした顔で田渕社長が話し始めた。
「実はな、今日は俺の長男に会ってほしい。こいつは子どもの時から優秀でな。教育大附属駒場高校(現在は筑波大付属駒場高校)を出て東大文1に現役で合格し、大学3年の時に司法試験に通って、いまは弁護士をしている。ま、天下の大秀才というところだが、俺はずっと、なぜだかこの長男が可愛くなかった。可愛いと思うには優秀すぎた。挫折なんて全く知らないから可愛がりようがなかった。それがしばらく前、離婚したんだ。親の目から見ても、ずいぶん悩んでいたよ。ヤツの人生における初めての挫折だな。その萎れている姿を見て、俺は初めて長男が可愛くなった。だからお前に、その長男に会ってやって欲しいんだ」
長男・智久君が愛車・ソアラで帰宅したのは午前1時半頃だった。田渕社長、智久君、それに私の3人で酒宴が始まった。終わったのは2時半頃か。
別にたいした話をした記憶はない。それでも、何となく田渕社長との距離が短くなった気はした。
待たせておいたハイヤーに乗り、鶴見の自宅に戻ったのはもう午前3時を過ぎていただろう。その頃には、私は田渕社長を敬愛するようになっていた。