11.15
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の34 野村證券支店長研修に1日とちょっとだけ参加した
田淵さんの話を続ける。
ある時、田淵さんが突然いいだした。
「俺は野村證券を理想の会社にしたい。目先の売り買いしか考えない株屋の集まりではなく、常識、良識を供えた金融の専門家集団にしたいんだ。だから俺は支店長研修に力を入れている。あの研修を見れば俺が何を考えているかわかるはずだ。原則として門外不出だが、君が見たいというのなら、君にだけ見せてやる。どうだ、来るか?」
私は田淵社長の頭の中を全部知りたかった。こんな誘いを断るわけがない。
「是非見せて下さい」
と頭を下げたのはもちろんである。
「じゃあ、研修用のテキストを広報に用意しておくから、受け取りなさい。研修期間は1週間だ。その間、集められた支店長は外部との連絡は禁止され、いってみれば軟禁される。そして、膨大な本を読むことを強制される。君が受け取るのはそのテキストだ。それを読んでおかないと翌日の討論に参加できないから、皆午前2時、3時までかかって読む。いくら君でも研修の全部を見せるわけにはいかん。初日と翌日の少し、で勘弁しろ」
翌日広報部に行くと大きな袋を渡された。本がどっさり入っている。チャーチルの「第二次大戦回顧録」、塩野七生の「海の都の物語(上)」、上野千鶴子の「スカートの下の劇場」、何かからコピーしたらしい文章が分厚く閉じられたファイル……。証券市場や金融とは全く関係がない本やテキストばかりである。
「証券会社の支店長が、こんな固い本を読む?!」
負けてはいられない。支店長たちが読むのなら、私も研修初日までに読了しなければならない。それが私を支店長研修に誘ってくれた田淵さんへの恩返しでもある。
短い日時で読み終えるのはかなり大変だった。事前に渡された私と違って支店長たちは前日渡され、翌日の討論に供えて部屋で読むというのだから大変である。
支店長研修は、確か箱根のホテルで開かれた。参加人数は20人~30人ほどだったと思う。初日は夕方ホテルに集まり、一風呂浴びてワイン付きの豪華な夕食会である。見も知らぬ、それも新聞記者が顔を出していることに違和感を持った支店長もいたかもしれない。だが、私は誘われたのだ。悪びれる必要はない。
さすがに、翌日の討論までは見せてもらえなかった。だが、この研修の教科書ともいえる本、テキストを読み、現場の空気を吸っただだけでも田淵さんの理想は推察できた。古今東西に渡る知識、教養を備え、あらゆる局面で適切な判断が下せる、人間味豊かな人材を育てて野村證券を理想の会社にしたかったのだと思う。
私には、最初の飲み会で一緒だった秘書氏が着いてくれた。彼は2日目、私と一緒に東京に戻った。
戻りながら考えた。私は野村證券に多大の負担をかけた。足代だけは会社の出張旅費で賄ったが、教科書をどっさりもらい、ホテルの宿泊代、食事代も野村證券の支払いである。これはいかん。このままではたかったことになる。
「ねえ、昼飯食いましょうよ」
東京に着くと、私は秘書氏を誘った。ちょうど昼時だった。
私が案内したのは、築地市場内の寿司屋「大和寿司」である。私が知る中で、もっとも美味しい寿司を食べさせてくれる。当時、1人前2000円だったか、2500円だったかの価格ながら、数回しか行ったことがない有名店(もちろん、ご馳走になったのだが……)より遙かに味がいい。
田淵さんにお返ししようにも、
「飲むときは野村證券が払う」
という条件を受け入れている。であれば、今回のお礼は秘書氏にしようと思ったのである。たかが2000円か2500円で御世話になったホテル代、食事代、本代をチャラにしようというのだから虫のいい話だが、何もしないよりましだろう。
しかし、田淵社長は会社の体質を変える鍵を、なぜ支店長に求めたのだろう?
ふと、周りの人たちから聞いた大阪支店長時代の田淵さんの話を思い出した。
株式相場が崩れかかっていた。それを事前に見て取った田淵さんは主な顧客を自分の足で回り、手持ちの株を売って金などほかの金融商品に乗り換えることを勧めた。株を売り買いすれば野村證券に手数料が入るが、金などの売買は管轄外である。つまり、野村證券には1円の手数料も入らない。1銭の得にもならない営業を田淵支店長はやってのけた。
しばらくすると、予測通り株価が大幅に下がった。大損を免れた顧客たちはその後、田淵支店長を心から信頼したため野村證券大阪支店の成績が大幅に向上したというのである。
「あのころからですよ。田淵さんは将来社長になるだろう、という話が社内でささやかれ始めたのは」
田淵社長は、自分のような支店長を育てたかったのではないか。目先の損得は捨てて、大局観に立って顧客の利益を最優先する。そういう判断をするためには、古今東西に渡る知識、教養がいる。長い目で見れば、それが会社の利益になると田淵さんは考えたのに違いない。
野村證券支店長、といえばもう1つ思い出がある。秘書部長から京都支店長に栄転した I さんのことである。
野村證券の取材を続けるうち、広報部長の Ta さんとこの I さん、それに私は、すっかり仲の良い飲み友だちになった。 I さんの栄転を聞いて、Ta さんと私で送別会を開いた。
その席で、 I さんはこんな話をした。
「京都支店長は、次は取締役に昇格することが多いポストです。先日京都に行ってきましたが、そのためでしょう、畑がすっかり荒れている。来る支店長、来る支店長が取締役候補だから、京都支店には『今度の支店長も取締役にしなければならない』という空気があるのです。そこまではいいとして、だから支店のみんなは、何とかして営業成績を上げようとする。京都支店の成績は、だからいつも上から5、6番目に入っている。しかし、店の利益しか考えない営業になってしまうから、客に売り買いをほとんど押しつけて、客の損を膨らませているケースが目立ちました。畑が荒れている、とはそういう意味です」
ふむ、取締役を出す支店とはそんなものか。
「だから私は、支店長になったら畑を休ませようと思います。耕して地味を豊かにします。無理な株式取引を押しつけない支店にします。見ていて下さい」
だけど、そんなことをしたら京都支店の成績が落ちて、あなたは取締役にはなれないかもしれない。それでいいのですか?
「はい、結果がそうなっても、誰かがやらねばならないことです。であれば、私がやるしかない、と思います」
田淵社長に仕える秘書部長だったから、いつの間にか田淵社長の考えに染まったのか、それとも元々そんな考えを持つ人だったのかは知らない。しかし、自分の昇進を犠牲にしてでも、野村證券京都支店を、まっとうな支店にしようという心意気は十分に感じ取ることができた。
だが、本当に実行できるのか? 言葉だけの決意に終わるのではないか?
あまり楽しいことではないが、そんな疑いの心を持ってしまった私は、京都支店の営業成績をウォッチした。下がった。 I さんが着任して京都支店の営業成績が下がり続けた。ついには30位にも入らない支店になった。
「あ、本当にやってるんだ、 I さん」
素直に嬉しかった。
だが、もう1つ疑念があった。 I さんは取締役になれるのか? 野村證券は営業成績を下げた支店長を取締役に取り立てる会社なのか?
その疑念もやがて払拭される。 1、2年後、 I さんは取締役に昇格したのである。目先の利益だけを見て客に株売買を持ちかけるのを「株屋」と呼べば、野村證券は「株屋」を評価せず、長期的な視点で客、野村證券のWIN—WINの関係を築く努力をした I さんも評価した。田淵社長あってこその人事だったのだと私は思っている。
そう、 I さんの送別会には、野村證券の別の一面も顔を出した。宴席が終わり、いざ会計という時である。
私は財布を取り出し、
「俺の負担、いくら?」
とTa 広報部長に聞いた。送別会である。送る側がポケットマネーで支払うのが当たり前である。ところが Ta部長は
「いいよ、会社の交際費で落としておくから」
と言い放った。ん? 送別会の費用を野村證券の交際費で落とす? 私を送る送別会ならそれもアリかもしれない。しかし、今回は野村證券の I さん送るのだ。それはないんじゃないの?
「いいんですよ。送別会というのは送る心が大事なんで、その費用がどこから出たかは問題じゃないんです」
それが、当時の野村證券だった。どこかおかしい、と私は思う。しかし、そんな野村證券らしいおかしさも何となく、
「そんなものかなあ」
と了解してしまったのだから、ひょっとしたら新聞記者失格だったのかもしれない。