11.27
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の46 落ちこぼれる?
証券業界を担当した2年ほどの間、私は結構身を入れて仕事をしたと思う。ところが、あのインサイダー取引事件を除けば、あまり記憶に残る仕事がない。多少記憶に残るのは新規上場株の問題ぐらいである。
時はバブル絶頂期である。新規上場株が異様な人気となった。
「新規株を買いたいのに買えない。証券会社が大口取引先に回しているから我々小口の個人投資家に回ってこないのだ」
という不満があちこちで聞かれた。だから、そんな話を記事にした。
「あんたら、新規上場株を大口客に回してるんだって? あそれ、おかしくない?」
と野村證券の役員に詰め寄ったこともある。答えは
「いまのように、新規上場株が必ず値上がりする時代ばかりではない。上場と同時に値下がりする時代の方がむしろ多かった。そんな環境でも、新規上場を引き受けた幹事証券会社は公開する株式の引受先を探さなければならない。目先の損を覚悟で、長い目で見て欲しいとお願いして買ってもらった時代もあるんだ。だから、その恩返しに、値上がりが確実な新規株を優先的に回して何が悪い? 環境が悪ければ小口の個人投資家なんて絶対に新規株を買わないんだぞ」
それでも、
「値上がり確実な株を買うのは投資じゃない。濡れ手に粟というものではないか」
と反発し、記事にした。
しかし、いま思う。この問題、野村證券役員の説明の方が筋が通っていないか? 値上がり確実な新規上場株を俺にも回せ、という個人投資家はおかしくないか? そんな要求を口にするのは、いいとこだけ取りたいという根性のひん曲がった連中ではないか?
私は、考え方が保守化しているのかもしれないが。
それを除くと、記憶に残る仕事がないのである。
私は
「1年間は遊んで暮らせるね」
という船橋洋一デスクの話をうのみにしたわけではない。毎日のように夜討ちと称して田淵さんをはじめとした野村證券役員や日興證券社長の自宅を襲い、あるときは大蔵省幹部の官舎にまで押しかけて取材をした。この大蔵省幹部は室内でシェットランド・シープドッグを飼っていて、
「ああ、綺麗な犬だな」
と思ったのが、後にラリー、リンという2匹のシェットランド・シープドッグを飼うことにつながるのだが、それなのに記憶に残る記事がないというのはどういうことだ? 世の中全部がバブルに浮かれている時代、たいした出来事はなかったということか?
しかし、夜回りに伴う思い出はある。
私の夜回り仲間は、一緒に証券業界を担当していたい後輩のKo君だった。夕方になると
「大道さん、今日はどこを回ります?」
と聞いてきて、
「うん、〇〇さんのところに行こうと思っている」
と話すと、
「じゃあ、僕は△△さんのところに行きます」
と腰を上げた。私はサボるのが好きである。無用な仕事はしたくない。そんな私が毎日のように夜回りをしていたのは、ひょっとしたらKo君に背中を押されてのことだったのかもしれない。
このころ、会社差し回しのハイヤーには無線電話がついていた。夜回りを終えたKo君はよく私の車に電話をしてきた。
「いまどこですか? これから飲みませんか?」
良くいえば、夜回りをした結果の情報交換である。もっと率直に言えば、雑談をしながら、美味いもの、美味い酒を楽しんだに過ぎない。
そんなKo君がその日も私のハイヤーに電話をしてきた。もう夜も11時を回っている。
「大道さん、いまどこですか?」
「ああ、〇〇さんのところを出て家に帰る途中だ」
「飲みませんか? ちょっと相談があるのですが」
「うーん、もうすぐ家に着く。だったら、俺の家に来いよ。俺んちで飲もう」
Ko君が我が家に到着し、酒宴が始まったのはもう12時も近かったと思う。
「どうしたんだ?」
「いやあ、ちょっと、その、仕事に自信をなくしまして。このままだと私、落ちこぼれてしまうのではないかと心配になりまして」
Ko君は私の背中を押して夜回りに送り出すほど取材熱心な記者だった。同年配の後輩と比較して彼の能力、努力が劣っているとは私には見えない。むしろがんばっている方だと思っていた。その彼が自信をなくした? 人間とは誠に複雑な生き物である。
「落ちこぼれる? 俺の目にはそうは見えないけどね。でも、万が一君が懸念していることが起きて、朝日新聞で落ちこぼれたっていいじゃないか? 考えて見ろ。俺たちは大学まで出て、数百倍の競争を勝ち抜いて朝日新聞に入った。客観的に見れば社会のエリート層の一部だろう。その中で落ちこぼれたってエリートであることには変わりはない。落ちこぼれても。エリートの中の変わり者程度にしかならないんじゃないか? それに、評価は人がするものだ。自分では何ともならない。自分で納得できる仕事をしていいんじゃないの?」
私に、証券担当時代に書いた記事の記憶があまりないように、彼も仕事をしても仕事をしても、なかなかパッとした記事が書けない、と悩んでいたのかもしれない。それは記者の責任ではない。担当分野で記事にすべき出来事が起きなければ、どんなに優秀な記者でもパッとした記事は書けないのだと私は思う。努力を欠かさないのは、いい記事が書けるチャンスが目の前を通り過ぎようとするとき、それを確実につかみ取るためなのだ。飛んでこないものは、つかもうとしてもつかめるはずがない。
私の話で心のモヤモヤが吹っ切れたのかどうか分からないが、あとは情報交換と雑談をしながら飲んだ。彼が帰っていったのは1時半だったか、それとも2時になっていたか。
しかし、Ko君は体が大きく、先輩を先輩とも思わぬような豪胆な男だと思っていた。それが思いのほか繊細な心を持っていた。後に落ちこぼれはしたが、落ちこぼれるのではないかと心が騒いだことがない私とは全く違う人らしい。
朝日新聞は多様な人物の集合体だった。