11.28
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の47 「銀座のクラブにご招待しよう」とMoさんは言った
そろそろ証券業界担当から離れなければならない。
その前に、1つだけ書いておきたいエピソードがある。最初のキャップ、Moさんの話である。
ある土曜日だった。その日は私が出番で、ひとりで記者クラブに詰めいていた。土曜日は市場は休みだから、証券会社も開いてはいない。だから、仕事といっても何もやることはない。「緊急対応」といえば様になるが、1日ボーッとして過ごす、私の場合はひたすら本を読んでいるのが実情だった。
Moさんが記者クラブに顔を出したのは夕刻である。
「おう、大道君、土曜出番、ご苦労さん」
「えっ、Moさんは休みでしょ? どうしたんですか?」
「いや、ちょっと近くまで来る用事があったので、君がどうしてるかと思ってね。何もない?」
「ええ、平穏無事ですよ」
他愛のない言葉のやりとりをしていたら、Moさんがが突然いった。
「そうだ、大道君、今日、夜はあいてる?」
「ええ、別に予定はありませんが」
「じゃあ、飯食いに行こうよ。銀座のはずれに面白い店があるんだ。君に紹介するよ」
Moさんが私を案内したのは、三原橋に近い炉端焼き屋だった。なるほど一風変わっている。
私たち客が座るテーブルは1辺が2mほどある正方形である。その真ん中が囲炉裏になっており、客は用意された食材を棚から勝手に持ち出し、この囲炉裏で火を通して食べるのである。
日本酒の燗をつける徳利も変わっていた。底が尖っている。この徳利を囲炉裏の灰に刺し、酒を温めるのである。
「いやあ、Moさん、女の子を連れてきたら喜びそうな店ですね。そっち方面もご活躍ですか?」
どうでもいい話をしながら、炉端焼きと日本酒を楽しんでいた。
先に書いたように、テーブルは1辺2mほどもある大型である。私たち2人だけでは埋まらない。飲み始めてしばらくした頃、若い女性の2人客が同席した。1つのテーブルを囲むのだから、自然に会話が始まる。
「こちらのシシトウ、もう焼けているみたいだけど」
「燗がまだ暖まらない? だったら僕等のを飲んでいればいいよ」
その程度のどうでもいい会話だけなら、何の問題も起きなかっただろう。やがて酒が回ったのか、Moさんが「本性」を表し始めた。
「ねえ、君たち、僕たちの仕事、分かる?」
当日、私は土曜出番なのでスーツ、ネクタイは着用していない。Moさんはいつものようにスーツにネクタイ姿である。この外見から職業が分かるか?
いや、分かるかどうかはどうでもいいのだ。日比谷高校—東京大学(確か、経済学部)というエリートコースをひた走ってきたMoさんは、朝日新聞記者であることにこの上ないプライドを持っていた。いや、私だって、これこそ自分の進むべき道だと思って朝日新聞記者の道を選んだ。だから、人並みのプライドは持っていたし、いまでも持ち続けている。だが、Moさんのプライドの高さは一頭地を抜いていた。これほど高いプライドを隠さず、臆面もなく人前でさらした人は他に思い当たらない。
「僕たちの仕事、分かる?」
とはそのプライドの現れである。自分が朝日新聞の記者であることを、目の前の2人の女性に知って欲しくて仕方がないのだ。この、高貴な仕事である新聞記者、中でも朝日新聞記者であることを、2人にアピールしたい。
「俺は朝日新聞の記者だ!」
と大段平を振り回したいのである。
ところが、普通の生活をしている人々にとって、新聞記者とは遠い存在である。そんな仕事があることは知っていても、実際の新聞記者なんて見たことも会ったこともない人がほとんどだろう。そして、Moさんにとっては新聞記者は雲の上の人並み優れた存在かもしれないが、普通の人々にとっては、地の底に潜って姿を現さない不可思議な連中ということになるのではないか。
だから、2人は間違い続けた。
「銀行員? でも、こちらの人はネクタイしてないし」
「どっかのメーカーですか?」
「ああ、分かった。商社でしょう。三井物産? 三菱商事?」
当たらない。近づきもしない。やがてMoさんは苛立った。
「記者でしょう、それも朝日新聞の」
と言って欲しいのに、「き」の字も、「あ」の字も出て来ない。Moさんはやや引きつり気味の笑顔を2人の向けると、口を開いた。
「分からないようだね。実は僕たちはね、朝日新聞の記者なんだ」
そういわれれば、2人も反応せざるを得ない。それも大げさに。
「えーっ、記者さんなんですか! それも、朝日新聞の!! すごーい!!!」
Moさんに満足そうな笑顔がやってきた。
が、である。朝日新聞の記者であることが、そんなに誇るべきことか?
「すごーい!!!」
と感嘆符を3つもつけて(いや、ここでは私が着けた感嘆符ではあるが)賞賛されるようなことか?
自分の中でプライドを持つのは勝手である。多くの人が自分の仕事にそれなりのプライドはお持ちのはずである。それはよい。だが、他人にそのプライドを押しつけ、黄色い声を揚げさせるほど、新聞記者とは貴い仕事なのか?
横に座っていた私は、心底恥ずかしかった。時間が止まればいいと思った。止まらないのなら、早く過ぎ去ってくれと願った。
願ったのに、時間はそうやすやすと過ぎ去ってはくれなかった。気をよくしたのだろう、Moさんが爆弾発言をしてしまったのである。
「君たち、銀座のクラブにいったことはある?」
ん? 何の話だ? この店で初めて会ったこの2人に、夜の社交場ともいえる銀座のクラブの話を何故しなければならない? そもそも銀座のクラブなどというものは男の世界であって、うら若い女性が足を踏み込むところではないではないか。
「いえ、行ったことがありません」
当然の答が返っていた。
「そうなの? だったら私が、今日これから君たちを銀座のクラブにご招待しよう」
!!!
この人、何ということを言い出すのだ? 気でも狂ったのですか、Moさん? この誘いが突飛すぎるという判断力をあなたは持っていないのですか?
2人は、当然断るのだと思った。いや、そう信じたかった。ところがである。私の願いは天には通じなかった。
「えーっ、ホントですか? 行ってみたーい!」
私はこの日、運命を呪った。なんでこの2人と銀座のクラブなんかに行かねばならない? 逃げ道はないか? なさそうだ……。
行った、銀座のクラブに。私にはなかったが、Moさんには行きつけのクラブがあったらしい。朝日新聞の給料で、どうしたら銀座に行きつけのクラブが持てる? Moさん、いったどこからカネをひねり出していたのだろう?
酒宴が終わり、クラブのドアを開けて外に出ると、2人は
「本当にごちそうさまでした!」
といいながら歩き去った。それだけの夜だった。
百歩譲ろう。Moさんがこの2人をナンパして志を遂げようと思ったのなら、銀座のクラブでの散財もまだ考えようがある。だが、Moさんは2人に、連絡先も聞かなかった。ただ、銀座のクラブでご馳走しただけだった。
いったいMoさん、何を思っての「ご招待」だったのだろう? いまもって謎である。