11.29
私と朝日新聞 2度目の東京経済部の48 3回連続で訂正を出してしまった
次の担当は経済企画庁(現在は内閣府の一部)だった。就任したのは1990年前後だったと思う。
実質はともあれ、経済企画庁は国の経済政策全般を司る官庁である。つまり、数字いじりを仕事とする。数字? 私、苦手である。そもそも、経済部に招かれたとき、
「いやあ、数字は苦手なんです」
と言ってのけたのが私なのだ。その私が経済企画庁担当? とんでもない人事だと思う。そして、とんでもない人事だった。何と、3回連続で訂正を出してしまったのである。
経済企画庁が記者向けに発表するのは、おおむね「数字」の話である。様々な統計が、数字として示され、まあ、常日頃はたいした記事にはならないが、経済面にはなくてはならない情報となる。それを3回連続で間違った記事にした。
どのような統計の記事で間違ったかは記憶にない。ただ、記者に示されるのは最新の統計の数字で、記事にする場合は各社備え付けの「過去の統計」から数字を拾い、1ヵ月前、1年前などと比較する。比較しなければ、現下の経済がどのような動きをしているかを見ることが出来ないからである。
その、過去の数字を拾い損ねたのが1回目の間違いだった。1年前だと思って拾った数字が2年前のものだったか、それとも月を間違って前年の違う月の数字と比較したか。全く記憶にないのだが、極めて初歩的なミスだった。
新聞記事というものは、推論の部分で多少の間違いを犯してもそこそこ許されるものである。1つの事象をどう捉えようと、人には様々な見方があるのだ。論理さえ通っていれば、世間一般の見方とずれがあっても、
「新聞は多様な見方を紙面化しなければならない」
ということで通ってしまう。もともと、記者の書いた原稿はデスクが目を通すから、あまりに飛び跳ねた推論はデスクの注意を引き、デスク—記者間で議論が始まるから、何ともならない推論の記事は紙面に出ることはないという安全弁もある。
しかし、何とも言い訳が出来ないのは固有名詞と数字である。これを間違ってしまったら議論もへったくれもない。間違いは絶対に間違いなのだ。
それでも、1回なら、
To err is human, to forgive divine.
(過つは人の常、許すは神の業)
とでも嘯(うそぶ)いていればすむ。もちろん、デスク(記者の原稿に手を入れて商品とするに耐える文章にする人)には、ひたすら謝罪する。間違った原稿が紙面に出れば、その原稿を通してしまったデスクの責任も問われるからである。
それでも、訂正を出したときは反省した。なぜ間違ってしまったか、自己検証もした。時間に追われていたわけではない。それでも間違った数字をピックアップしてしまったのは、詰まるところ、私の注意が足りなかった、あるいは仕事に馴れて(慣れて、ではない!)しまっていい加減に記事にしてしまったかである。
「私は経済記者である。もっと数字に神経質にならねばならない!」
そう自分に言い聞かせた。
それから数日後のことである。別の統計発表があった。前回の原稿で訂正を出してしまったのである。数字の点検には気を使った。何度も見返した。これで間違いないと思って原稿を送った。
その記事に、またしても数字の間違いがあった。
こうなると、いかにノーテンキな私でも、萎れる。これはいかん。デスクの叱正も1回目より厳しい。当然のことである。
「大道、お前何やってんだ?!」
言われるまでもなく、自分でも、俺は何をやってるんだ? と気分が塞ぐ。よし、もう絶対に間違わないぞ!
それなのに、である。
その次に書いた統計原稿で、またしても数字を間違ってしまったのだ。連続3回の訂正である。ひょっとしたら前代未聞、いや空前絶後かもしれない。デスクはあきれ顔をした。私は自分で自分を信じられなくなった。あれほど念入りに、何回も見直した原稿で、どうして数字が間違う? ひょっとして俺、頭のどこから狂っていないか?
3回連続のミス。3回続いての訂正。原稿を書くのが怖くなった。もう、数字が入った原稿は書きたくない!
私はすっかり塞ぎ込んでしまった。