2024
01.23

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の5 「ものづくりの方舟」の話

らかす日誌

栗原さんを初めて訪ねたのと並行して、私は赤池学さんとも会った。I 編集長に渡された「メルセデス・ベンツに乗るということ」という本を読み終え、彼の文章に惹かれた。机の前で正座し、姿勢を正して一文字一文字に思いを込めて筆を進めたような端正な文章だった。

もうずいぶん昔に読んだ本だから、中身はほとんど忘却の彼方である。要は、ベンツという会社は常に車の本質を追究し、惜しみなくコストを注ぎ込み、最先端の車を作り続けているという話だった。薄らと記憶に残っているのは、ベンツは地球環境保護のためプラスチック使用をやめたいと思っており、シートの中に入れるウレタンの代わりに植物を使おうと、南米に農園を持ってシート材に使う植物を育て、使っているという話ぐらいだ。
私はいまのベンツは評価しないが、この本が出た頃のベンツは、確かに世界1の車を作っていたと思う。ベンツが変貌したのは、アメリカで高級車として大成功したトヨタ自動車のレクサスを分解し、

「何だ、こんなに手を抜いても高級車と評価される車が作れるのか」

と学んだからだと読んだことがあるが、赤池さんが書いたのはおかしくなる前のベンツである。理詰めの文章で克明に理想ともいえる車メーカーを描き出していた。私は会う前から

「この人にコラムの執筆を頼もう」

と決めていた。

お目にかかってみると、赤池さんはやや訥弁な、だが体中から誠実さ伝わってくる人だった。ますます好感を持った。
その赤池さんへの最初の質問が

「あなたはベンツに乗っているのですか?」

だったことは当然の流れである。その当然の流れから逸れたのは、赤池さんの返答だった。

「とんでもない! 私にベンツなんか乗れませんよ」

えっ、ベンツに乗っていないのに、あんな本を書いたの?
筑波大学生物学類卒。大学院で昆虫の構造や形が遺伝メカニズでどのように形成されていくのかを研究したことを生かし、昆虫が持っている機能を人工物のデザインに生かせないかを考え、書き続けているフリーのジャーナリストである。そうか、フリーのジャーナリストはなかなかベンツオーナーにはなれないか。

コラムは順調に始まった。確か「ものづくりの方舟」というタイトルだったと記憶するが、このタイトルの本をネットで探しても、朝日新聞ウイークエンド経済で連載誌とものを本にまとめた、という記述は見つからない。私の勘違いであればお許し願いたい。

その、「ものづくりの方舟」の何回目だったかは記憶にないが、赤池さんは法隆寺を取り上げた。世界最古の木造建築物である法隆寺を、技術という観点から掘り下げた秀逸なコラムだった。約1400年前に法隆寺を建築した人々は、長く後世に残るようにありったけの技術、知識を注ぎ込んだ。一例を挙げれば、使用したのは山の北斜面で育った木ばかりである。日当たりが悪い北斜面の木は成長が遅い。そのため木目が詰まり、丈夫な木になるからである。そのような建築技術者の努力があって初めて、法隆寺は1400年の齢を重ねて私たちの前にある、といった中身だった。

私は目からうろこが落ちるような思いでこの原稿を読んだ。そして紙面に掲載した。

ウイークエンド経済は毎週土曜日の夕刊に掲載された。法隆寺からウイークエンド経済部宛の手紙が届いたのは翌週の半ばだった。法隆寺は歴史として、建築の美として、あるいは1400年前の木造建築がいまだに立ち続けていることが示す私たち日本人の先祖の技術力の高さ、守り続けてきた人々の宗教心の篤さ、などとして語られることが多い。それに対して赤池さんの原稿は、法隆寺は何故1400年の長寿を保っているのかという謎に技術的側面から光を当てたユニークなものである。だから、手紙を受け取った私は

「きっと、法隆寺をこれまでなかった視点から評価してもらった、などという感謝の手紙だろう」

と気楽に考えて封を切った。
確かに、法隆寺を技術綿から解剖したことへの謝礼はあった。ところが、

「いまある法隆寺は1400年の齢を重ねてはおりません

という一文があった。記憶によると、法隆寺はこれまでに3回、火災で全焼していると書いてあるではないか。

いまならウィキペディアで法隆寺の歴史は簡単に調べることが出来る。それによると創建されたのは607年、推古天皇の御代である。そして670年、火災で全焼する。708年に再見された法隆寺は925年、大講堂、鐘楼が消失、1435年には南大門が焼けた。1949年には近藤から火が出て壁画を焼いた。

だが、当時はインターネットも黎明期で、ウィキペディアなどは存在しなかった。余程専門的に資料を集めない限り、法隆寺の火災の歴史など分かるはずもなく、赤池さんも、彼の原稿を商品に仕上げる役回りの私も、

「世界最古の木造建築」

であるのなら、創建当時の姿が今に伝わっている、と思い込んで疑いもしなかったのである。

朝日新聞のコラムの間違いを指摘した手紙には、だが

「訂正して欲しい」

とは書いてなかった。ただ、法隆寺の正しい姿を知って欲しい、という思いだけが伝わってきた。しかし、間違いは間違いである。間違いを正すにはばかることなかれ。私はすぐに赤池さんに連絡を取った。いただいた手紙の趣旨を話し、再取材、再執筆をお願いした。

「奈良まで行って、この手紙を書いた人に会ってほしい。その上で、もう一度法隆寺を書いて下さい。原稿料とは別に、奈良までの旅費、宿泊費は朝日新聞が負担します。お願いできませんか?」

赤池さんは快諾してくれた。数日後、奈良から戻ったという赤池さんが電話をしてきた。

「おかげでいい取材が出来ました。お話しをうかがえただけでなく、法隆寺をあちこち案内していただいて、床下まで見せてもらいました。傷んだ柱にはくっきりと修復の跡があり、法隆寺がいまの姿を保っているのは長年にわたる多くの人の『法隆寺を守る!』という思いがあってのことだということを頭に刻み込んできました」

そして間もなく、2本目の法隆寺の原稿が届き、紙面を飾ったのはいうまでもない。

最初の間違いを、紙面の片隅の訂正記事で済ませる選択肢もあった。しかし、それでは日本が世界に誇る法隆寺に申し訳ない、という思いがこうして結実した。私は、転んでもただでは起きないという精神を実行したと思っているが、いかがだろうか。

昨日の「らかす」で、栗原さんの「食楽考」をAmazonに注文したと書いた。そして今日は赤池さんの「ものづくりの方舟」を、やはりAmazonに発注した。数日したら届くはずである。届いたら、その一節ずつを「らかす」でご紹介したいと思っている。私が産みだしたコラムの一端をお知り頂きたいからである。
しばらくお待ち願いたい。