2024
01.31

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の13 新年1面企画を書けと命じられた

らかす日誌

私が記事審査室員になったのは10月。半年の約束だから、翌年3月までのおつとめだ。そう思っていたら、11月末頃、経済部長から呼び出された。

「君、大道君、すまないが、新年の1面企画に加わってほしいんだが」

新年の1面企画とは、1月1日朝刊から1面で始める連載のことである。新しい年の日本の課題を読み解き、出来れば提言までする。年明けには必ずこのような連載をするのが日本の新聞である。そして、それぞれの新聞の顔とも言える。そのライターの1人になれという。

「いや、でも、私はいま記事審査室員ですし、いまの仕事をしながらでは取材は出来ません。無理ですよ」

抗った。

「それは分かっている。記事審査室長には俺から話を通しておくからやってくれないか」

朝日新聞では、経済部長の方が記事審査室長より格上だ。経済部長の話を記事審査室長が拒否することは出来ない。ま、朝5時に起きる仕事から解放され、取材が出来る仕事に戻ることはありがたかった。
でも、これは異例のことである。いったいどういうことなのか?

経済部から記事審査室に出されたということは、例え半年間とはいえ、経済部にいなくてもいいということだ。つまり、経済記者としての評価は低いとうことだろう。
しかし、正月の1面企画はその年の朝日新聞の金看板のようなものだ。であれば、そのライターの一員になるということは、私はライターとして高く評価されているのか?
いったいどちらなのか?

この2つの面を合わせて考えてみた。多分こういうことではなかったか。新年企画に経済部からもライターを1人出せという要請が編集局長室から来た。経済部長は誰を出そうかと考えた。しかし、経済部は課題山積みで、1人でも記者が欠けるのはつらい。どうしようかと考えているうちに、

「そうだ、戦力外が1人いた。記事審査室に出した大道だ。あいつにだって経済部の尻尾がついているではないか!」

と思いついたのではないか? つまり、新年の金看板をより立派なものにするより、経済部の事情を優先した結果が、

「君、大道君、すまないが、新年の1面企画に加わってほしいんだが」

ではなかったのか?

まあ、よい。私はしばらくではあるが、強制された早寝早起きから解放されるのである。こんなにありがたいことはない。

連載企画は会議から始まる。デスクの役回りをする統括責任者(この時は編集局次長だった)と各部から出て来た私を含めたライターが一室に集まり、意見を交わして企画をまとめる。まとまったら振り分けである。取り上げるテーマを細分し、各回の内容を煮詰めていく。その過程で、自ずから担当ライターが決まる。そして、各ライターは取材に散り、鵜匠に操られた鵜がアユを加えて戻るように原稿を書き上げて提出する。1回で原稿が通ることはまずない。書き直しを命じられて再取材に走り、2回目の原稿もダメで再々取材……。

実は、この年の連載企画のテーマが何だったのか、私はその中で何を引き受けたのか、何回目の原稿でOKが出たのか。こんな肝心なことが全く記憶に残っていない。残っていないが、朝日新聞の金看板を書く役回りはかなり辛かったはずである。

やや時間をさかのぼるが、いつも一家言を持つ先輩がいた。ほとんどあらゆる課題に、これはこう、あれはあれ、それはそれ、と回答を出していく能力にほとほと感心した。この人に、記者として不可能なことはないのではないか?

その先輩とある日、一緒に夜回りに行くことになった。一緒に連載記事を書くことになったからだ。
ハイヤーの後部座席に並ぶ。その先輩が唐突に話し始めた。

「ハイヤーに乗ってると、この車、事故ってくれないかな、と思うことがあるんだ。いや、命まで取られるような事故は御免だが、腕の1本や足の1本が折れるぐらいの事故なら起きてほしい、ってな。そうすれば、目先の原稿を書かなくても済むだろう?」

ああ、この人にしてからがそうなのか。私も日常の記事を書くことには慣れたが、連載記事を書くとなると逃げ出したくなることが多い。いくら取材しても、当初に思い描いたストーリーを書ける材料が集まらない。あるいは、当初に思い描いた全体の構図が、取材をすればするほどガラガラと崩れていく。おいおい、いったいどうしたら連載記事が書けるんだ? どこかに逃げ道はないか? そんな思いを何度抱えたか。

そんな思いを抱えるのは、私の能力不足のためである、と思っていた。ああ、もう少し頭が良く生まれていれば、快刀乱麻を断つがごとく、あらゆるテーマをバッサ、バッサと切り刻めるはずなのに。

どうやら、そんなコンプレックスを抱えているのは私だけではないらしいと思い知ったのは、先輩がハイヤーの後部座席で漏らした述懐を聞いてからである。この先輩でもそうなら、これは記者が誰でも抱える思いなのだと。

記者として連載企画を抱えるということはそういうことである。今回は金看板の企画である。取材しながら、逃げ出したい気持ちも抱えていたはずだ。しかし、より大きかったのは、取材をして記事が書けるという喜びだった。人が書いた記事をどれほど正確に批判しても、それは死体解剖に過ぎない。死体を相手にするより、生きた現実を相手に格闘する方が楽しいというのが新聞記者なのだ。

というわけで私は、半年間の記事審査室勤務のうち、ほぼ2ヵ月は一線の新聞記者だった。死体解剖の執刀医であったのは、だから4ヵ月前後で済んだ。私は幸運な記事審査室員であった。