02.01
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の14 また建設省担当にになった
経済部長は約束通り、6ヵ月で私を経済部に呼び戻した。新しい担当職場は、再び建設省だった。
「またかよ!」
と思わぬでもなかったが、私にはどうすることもできない。そういえば、1回目の建設省担当は、建設省の記者クラブに初めて経済部の机が出来たという意味があった。いわば、私は社内での経済部の勢力拡大の先兵だったわけだ。だから、ひょっとしたら期待されていたのかもしれない。
しかし、2回目の建設省担当となってよくよく観察すると、建設省担当とは経済部の中でははずれの職場である。経済部として建設省に記者を置く必要が、なぜかこの間に薄れてしまったらしい。
「ま、誰か置いておけばいいさ」
程度になっていたように私は受け取った。
お断りしておく。記事審査室以降の原稿は、私が経済部の主流、つまり昇進の階段を踏み外して何となく拗ねているような印象を与えているかもしれないが、もしそうなら私の筆力不足である。私はできるだけ当時の自分を突き放して見ているつもりである。もともと偉くなろうと思って朝日新聞に入ったのではない。だから主流から外れることに違和感はなかった。取材して記事を書ければよかった。
そもそも、朝日新聞で役員になろうと思うのなら、少なくともまず経済部長にならねばならない。しかし、部長の仕事が面白いか? 中間管理職として編集局長、それ以上の偉いさんの鼻息をうかがい、社内における経済部の勢力拡張を計り、部員を査定し、人事異動をする。そんな官僚のような仕事で時間をつぶすより、社外で様々な人と知り合い、知らなかった世界を旅し続ける人生の方が楽しくはないか?
私はそう思って身を処してきた。無論、こういう言い方には負け惜しみも紛れ込んでいるかもしれない。しかし、いまの時点から振り返っても、朝日新聞の幹部になっている自分の姿を思い描くことは出来ない。そんな地位は、私には不似合いなのだろう。
そこで2回目の建設省担当である。と書いて、唖然とした。どんな仕事をしたか、記憶が全くないのである。確か、亀井静香さんが建設大臣であった。もっとも、大臣を取材するのは政治部の仕事(政治部の建設省担当が記者クラブの隣の席にいた)と割り切っていた私は、あまり関わりを持たなかった。
ただ、記者会見で意見を交わしたことがある。建設省は国のインフラを整備するのが仕事である。そこの大臣である亀井さんは、公共事業の大幅増額を唱えた。それに対して
「いま日本は借金まみれです。この上借金を増やしてて道路や橋をつくるのですか? 増え続ける借金をどうするつもりですか?」
と問いただしたのである。
その時の亀井さんの答弁も覚えている。
「私は積極財政論者だ。支出を減らすだけで今の財政を立て直すことが出来ると君は思うのか? まず景気を刺激して税収を増やすことこそ、財政再建につながるのではないか?」
という趣旨だった。
いってみれば、どこにでも転がっている国家財政への考え方の対立を、私と亀井さんが代弁しただけのやり取りである。だから、何の意味もないのだが、なぜか記憶にある。
いま振り返れば、亀井さんはかなり面白い人である。中でも運輸大臣時代、客室乗務員を契約社員に切り換えてコスト削減を図ろうとした日本航空など航空3社に対し、
「安全上、問題がある」
と待ったをかけた人なのだ。いるのかいないのか分からない大臣が多い中、きちんと存在感を示し、しかもコスト削減という大鉈を振り下ろそうとした航空会社に対し、雇用が不安定になる客室乗務員の立場に立ち、安全性という武器で立ち向かった。
郵政民営化をごり押しする小泉内閣に反旗を翻して自民党に離党届を出したのもこの人である。政治家としてきちんと筋が通っている。
「もう少し大臣室に足を運び、いろいろ話を聞いておけばよかった」
と今になって後悔しても後の祭りだが、実に惜しいことをした。亀井さんと親しくなっていたら、私は彼のファンになっていたような気がするのである。そうしたら、政界進出を勧められていた? そんなことはないだろうが……。
あとは、本当に記憶にない。建設省では広報室長(のちに岡山市長になった大森氏)を始め、親しくなった官僚諸氏は多かった。ゼネコンも回り、中でも親しくなった大成建設の広報の皆さんを我が家に招いて酒宴をはったこともある。清水建設の広報室長と釣りに行ったのもこの間ではなかったか。
ところが、仕事となると記憶が空白なのである。
というわけで、2度目の建設省担当はこれだけで終了する。