2024
02.27

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の40 帰国の1

らかす日誌

ここから先はワルシャワでパソコンに入力しながら送信の時間がなく、帰国後に送ったメールを元にしているようである。中欧取材旅行の断片的な印象記のようなものだ。

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帰ってきました。とりあえず無事です。

〈ワルシャワのデパート = 不親切〉

—防寒帽がほしいのだが」
「こちらは女性もの。男性用は向こうの建物」
—防寒帽を探しているのだが
「売場にあるものしかない」
—売場には防寒帽は見あたらないのだが
「では、仕方がない」
—どこかで手に入らないだろうか
「わからない」

(解説)
防寒帽 = ほら、ソ連の映画などを見ていると、よく出てくるでしょう。革製の帽子で、耳覆いがあって、裏側に毛皮が付いているヤツ。探したのは、あれです。屋外で作業することが多い義父へのお土産。ポーランドのように寒いところなら手にはいると踏んだのですが。
ま、ご想像通り、このデパートではだめ。
でも、滞在中に何とか買うことはできました。そのいきさつは後ほど。

〈ルーマニアのデパート = 物がなかった〉

いい物だな、と思えたのは家具ぐらい。広々とした売場スペース、人が10人ほど横に並んで歩ける通路。

〈チェコ〉

シュコダの対応を嘆くHoly君。そして彼が口にした

「チェコでもスリが増えました。お金が盗まれるようになりました」

という言葉。

アメリカのジャーナリスト、デイヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)に、覇者の驕り(The Reckoning)」という本がある。フォードと日産自動車をモデルに日米の自動車産業史を語り尽くした名著である。
この本で、日本でも

「お金が盗まれるようになった」

時代があったことを知った。戦後の日本は、物価が1年で5倍にもなるハイパーインフレに見舞われた。それが、やっと安定し始めた昭和24、5年のことだという。
その部分を引用すると、

 Ikeda, who later became prime minister, grew quite close to Dodge. One day Ikeda came to their regular meeting and announced that the worst of the inflation was over and, with it, the worst of the black-marketeering. The recovery, Ikeda said, had finally began.
“How do you know? ” asked a suspicious Dodge.
“Because the police chief of Tokyo told me so today.”
“And how dose the police chief of Tokyo know? ”
“Oh, he said he was sure that the recovery had began because for the first time in years, Tokyo’s thieves have started stealing money from people again. Until now, the money was not worth enough to steal.”
(池田は、ドッジと極めて親しくなった。池田とは、のちに総理大臣になった男である。ある日、両者間で定例化していた会議の席で、池田は、インフレが最悪期を脱し、そのため、闇市商売も最悪状態から抜け出しつつある、と断言した。池田は、やっと回復が始まったのだと付け加えた。

「なんでそんなことがわかる?」
とドッジが聞いた。彼は疑り深い男だった。

「今日、東京の警察部門のトップからそのような報告を受けました」
「どうして、彼にそのようなことがわかるのか?」
「ああそうか。彼はこう言ったんです。東京で、ずっとなかった金銭泥棒が復活した。だから回復が始まったと確信している、と。これまで、お金は盗む価値がなかったんですよ」

(解説)
Holy君が語ったチェコとまったく同じ話ですな。
ちなみに、ドッジは1949年2月、特命公使として来日したデトロイト銀行頭取。力ずくで、戦後日本の悪性インフレを抑え込んだといわれる。
「覇者の驕り」のこの下りを読んだときは、すこぶる感激した。
いまのような不況になると、自殺や強盗が増える、なんてことは常識だが、泥棒がお金を盗むようになったから経済が最悪期を脱した、なんてね。
さすがに、できる人は見るところが違う。
ところで、そもそも、何でこんな本を買ったのか。
この本が世に出たのは、私が札幌にいるころ。新聞記事で知り、一刻も早く読みたくなった。だが、アメリカで出たばかりで、日本語訳なんていつになるかわからない。
だが、読みたい。
「よし、辞書を片手に読破してやろうじゃないか」
と蛮勇を発揮して、東京の大手書店に電話した。
「HalberstamのThe Reckoningが欲しいのですが、手に入りますか?」
輸入書のコーナーにいるのなら、それくらいの情報には通じていてもらいたいではないか。ところが、素っ頓狂な店員しかいないらしく、
「は? Halberstamですか? それはどんな人ですか? あ、アメリカのジャーナリスト。そうですか、書名は何でしたっけ? The Reckoning、あ、そうですか。すいません、綴りは? はいはい、えー、ちょっとお待ちください……、(3分17秒)あのー、在庫はないようですが」
アメリカで出版されたばかりだから、そんなことは当たり前だ。
「いつ頃入荷しますか?」
「えー、よくわかりません」
「入荷はしますか?」
「はあ、それもちょっと……」
頓珍漢な会話が繰り返された。

だが、読書人の友、丸善は違った。
「あー、出ましたですね。アメリカでも評判がいいようですよ。はい、もちろん注文は入れてあります。あと2週間程度で入荷するはずですが。ご予約入れておきましょうか?」
私は、このような究極のプロフェッショナリズムに他愛もなく感動してしまう類の人間である。プロはこうでなくっちゃ!
1も2もなく予約した。何が待ち受けているのか、深く考えもしないで。
間違いに気付いたのは、本を手にしてからである。
バカ重い本である。縦24.2cm横16.4cmと図体が馬鹿に大きい。本文728ページ、著者あとがきなど24ページの計752ページが分厚い表紙に挟まれて、厚さは5.8cmにも及ぶ。
総重量は、なんと1.24kg
5200円ほどしたから、100gあたり420円もする。我が家で食する牛肉より遙かに高い!
いや、それだけなら驚くまい。
何と、すべてのページが英語で書いてあるではないか。我が慣れ親しんだ日本語はどこにもない!
思えば、輸入書だから当然のことである。注文する前からわかっているはずの事実である。
だが、頭の中で想像することと、この目で見て事実を確認することは、アナログ放送とデジタル放送ほど違う(違わないってか?!)。
思わず、つぶやいてしまった。
「これ、俺が読むの?」
このようなとき、自らを救う思考法は1つしかない。

「文章は、隅々まで理解できなくてもいい。おおむねの流れがわかればすむ。日本語の本を読んだところで、読み終わって残っているのは、その程度だ」
戦いの始まりだった。
自宅でThe Reckoning、通勤途上でThe Reckoning、昼飯を食べながらThe Reckoning、トイレに入ってもThe Reckoning……。1.24kgグラム、100g420円。
これは、ほとんど知的格闘技である。
突然、私に伏兵が現れた。時間である。関ヶ原の戦いで、味方だったはずの小早川秀秋に、戦いの最中に側面を襲われた石田三成に似た心境に陥った。読んだことにしたページが全体の半分ほどに達したころ「The Reckoning」の翻訳版の出版予告が新聞に出たのである。
考えてみれば当然のことだ。
Halberstamの著書は、それまですべて日本語に翻訳され、出版されている。「ベスト&ブライティスト」「メディアの権力」「ザ・フィフティーズ」。どれもいい本であります。今回だけ、翻訳、出版されないわけがない。
ではあるが、私は不覚にも、オリジナルの英語版を買ってしまった。まだ半分程度しか読んでいない。
「そりゃあ、ねえだろー」
である。
競争が始まった。
私が読み終えるのが先か、日本語版が世に出るのが先か……。
負けた
それも、大差で負けた。
どう見ても完敗だった。
日本語版が出たとき、まだ手つかずのページが200ページ以上残っていた。
私の努力は何だったのだろう?