2024
02.29

私と朝日新聞 3度目の東京経済部の43 経済同友会夏のセミナー

らかす日誌

経済同友会は毎年夏、軽井沢でセミナーを開いていた。会員である経営者の勉強会である。我々財界担当記者も、このセミナーを取材するために軽井沢に出向いた。

軽井沢は避暑地である。標高900mから1000mの高地に広がる町で、統計上では東京に比べて夏場は5℃ほど気温が低い。お金持ちがこぞって別荘を持ちたがる高級リゾート地だ。

統計は嘘をつく、とまではいうまい。統計上は確かに東京より涼しいのだろう。だが、統計は毎年の気温変化をならしたものである。私が、たまたま経済同友会のセミナーを取材しに行った年も東京より5℃気温が低いとは限らないのである。その年は異常気象だったのだろうか、軽井沢も東京並みに暑かった。

気象変動は世の常だから、それは仕方がない。困ったのは、私たち記者に割り振られた果てるにはエアコンがなかったことである。統計上は夏の最高気温が26℃というから、なるほどいつもの夏ならエアコンは不要なのだろう。多くの人たちがこの部屋で快適な眠りについていたはずだ。だから、異常気象の夏にたまたま軽井沢のエアコンのないホテルに宿泊することになった私たちは、余程運から見放されていたとしかいえない。
暑くて眠れないのである。ベッドに横たわっているだけなのに、絶え間なく汗が全身から噴き出す。窓を全開しても暑さは変わらない。ひょっとしたら、少しはましなのではないかと窓際に寄るが、やっぱり暑い、いや熱い。

記憶によると、この部屋で私は、経団連の会長人事についてTsu先輩と議論を交わした。経団連のセミナーにも同行したTsu先輩は、経済同友会のセミナーにもやって来ていた。取材熱心である。ホテルの部屋で夜、意見を交わすのだから、恐らく缶ビールを飲みながらの丁々発止だったと思われる。

Tsu先輩は、あの自薦組、半導体メーカー会長の支持者だった。酒席を共にすることもたびたびの仲で、私もその飲み会に何度か誘われて会長と酒を飲んだ記憶がある。
酒を仲立ちにしての仲だから、というのがTsu先輩の会長支持の理由ではなかったろう。Tsu先輩は私よりずっと幅広く財界人と呼ばれる人たちと付き合っており、ひょっとしたらこの半導体メーカー会長を次の経団連会長に推す空気が強かったのかもしれない。

「ダメだよ、新日鐵の今井なんて。君は取材が甘いな。経済界には今井支持者は少数派だ。今の情勢からすると、今井の支持率は多くて4割というところだぞ」

私は経済人の間での今井・新日鐵会長の支持率を割り出せるほどの人脈の広がりは持っていなかった。だから、はあ、そうですかと頭を下げるかというと、そうでもない。私はTsu先輩以上に豊田章一郎という人を知っている。

「いや、豊田さんは絶対に今井さんを選びます。半導体メーカーの会長とは肌が合わないと思います」

「そんなこというから、君はダメなんだ。章一郎だって経済界の空気を読むだろ? 空気を読んだら今井じゃないと分かるはずだ」

「私はね、本当は豊田さんが続投するのがいいと思っています。しかし、続投しないとなると、豊田さんの意中の人は今井さん以外あり得ません。豊田さん続投2割、今井さん8割というのが私の見通しです」

ま、いずれにしても酒飲み話である。どれほど意見が食い違おうと、私とTsu先輩の仲がおかしくなることはない。何日かすれば

「おい、〇〇(会社の名前)の△△(社長や役員の名前)と飲むんだが、君も来いよ」

と声をかけてくるのがTsu先輩なのである。安心して反抗できる。
意見というか、見通しというか、そんなものをやり取りするのが終わったのが何時だったか。Tsu先輩は自分の部屋に去った。残った私は寝苦しい夜と戦った。

結果的にこの論争は私の勝利に終わった。経団連会長の座に座ったのが今井さんだったことは前に書いた通りである。

宿泊したホテルとは違い、経済同友会のセミナーが開かれたホテルはエアコンが効いていた。大きな部屋に机がロの字型に並べられ、同友会のメンバーが着席する。記者席は窓側の壁に沿って設けられ、反対側の壁に沿って経済同友会の職員が座っている。この場で、経済の課題を話し合うのである。
記憶に残る議論の断片をつなぎ合わせると、その年のテーマは、日本経済の再生、だったようだ。日本経済を再び元気にするには企業経営者は何をなすべきか。そのやり取りに我々新聞記者が聞き耳を立てる。いわば、公開討論会である。

まあ、討論会である。誰しも、自分の発言で恥はかきたくないだろう。

「どうだ、俺はこんなすごいことを考えているんだ!」

と見栄をはりたい気持ちはあるはずだ。発言される方々はありったけの頭脳を絞って発言されるはずである。だから、それを聞いていると経営者としての資質がうかがわれる。

ありゃ、こりゃダメだ、という発現は、確か金融機関の経営者から出た。

「先日私はアメリカを視察してきまして」

から始まった話は、そのころしばしば耳にするようになっていた日本経済敗北論、アメリカ経済勝利論だった。だから我々はアメリカの経営に学ばなければならない。横文字を縦文字にして勉強しなければならない。
当時は耳にたこができるほど聞かされていた話を、自分でアメリカまで出かけた「取材」で集めたデータを元に展開するだけである。そこには、日本経済は世界のトップグループにあり、すでに学ぶ者は学び尽くした。これからは自力で道を切り拓かねばならない、という自覚は微塵もなかった。
恐らく、偏差値の高い大学を優秀な成績で卒業された秀才なのだろう。暗記を重視した時代にそのようなコースを進まれた方だから、「解答」はすでにどこかにあり、

「それを勉強しなければ、それを暗記しなければ」

ということになってしまうのではないか。勉強秀才に企業を率いることは出来るのか?

とんでもないことをいうヤツだ、という発現もあった。

「日本の経営はなにゆえにアメリカの経営に負けているのか。アメリカの企業には解雇の自由があるからである。アメリカ企業は業績が落ち込むとレイオフをすることができる。人件費を削減して利益を確保し、再出発できる。ところが我々日本企業には終身雇用が半ば義務づけられており、業績が落ち込んでも解雇は出来ないから大量の余剰人員を抱え続けることになる。それが悪化した経営の足をさらに引っ張って再建の道が遠のく」

この人、首を切られる恐ろしさも、首を切るつらさも全く分かっておられない。確かに、経営を数字の遊びと割り切れば、レイオフは有力な企業再建の道具だろう。しかし、企業の中で生き、暮らしを立てていくのは数字のゲームではない

私と朝日新聞 名古屋本社経済部の22 特ダネとその波紋」で書いたが、トヨタ自動車工業の会長だった花井正八さんは係長時代、指名解雇を言い渡す役割を仰せつかった。その記憶は会長になっても薄れることはなかった。

「辛いよ、あれは。だからねえ、企業は従業員の首を切っちゃいかんのだよ」

というのは、体験した人だけが口にするうめきだろう。首を切ってはいけない。レイオフしてはいけない。この発言者は従業員の首を切ることのつらさ、恐ろしさを全く分かっていない。
それに、である。余剰人員が出るような企業にした責任は、ホントは経営者であるあなたにあるのではないか? 従業員の首を切るより先になすべきことは、経営責任をとって今の座を退くことではないのか?

「ああ、経営者っていうヤツらは、こんな冷血漢ばかりなのか」

とうんざりしていたら、続いて発言する人がいた。この人も社員の首を切りたがっているのか? と聞いていると、少し様子が違う。

「経営者の責任とは、従業員の暮らしを守ることだと私は思っています。彼らは会社のため懸命に働いています。そして会社の業績が悪化したのは彼らの責任ではない。むしろ経営者の責任でしょう。それなにに、従業員が不利益を受けるいわれはありません。レイオフ制度などとんでもないと思います。そもそも、私たちがここで議論をしているのも、社員を幸福にするためなのではありませんか?」

決して雄弁な方ではなかった。むしろ訥々と語る方だった。その話を聞きながら、私はホッとした。こんなまともな考え方をする経営者もいるのだ、と。

討論は夕刻まで続き、終われば立食パーティだった。大広間に経営者、経済同友会のスタッフ、そして私たち記者が集う。
私は立食パーティというのが苦手である。立ったまま、食べながら、飲みながら、会話を交わす。あまりにマルチな作業を強いられ、どれかが抜け落ちる。私の場合は「食べる」が抜けることが多く、パーティが終わればどこかの飲食店でお腹を満たすのが常だった。さて、あの日はどこで何を食べてお腹を満たしたのだったか。

このパーティで、何故か1つだけ、いまだに記憶に刻み込まれていることがある。オリックス社長だった宮内義彦さんの「おしゃれ」である。
討論を終えてパーティ用に着替えてきたのだろう。長袖、スタンドカラーのシルクのシャツをお召しになって会場に姿を現したのだ。コットンと違い、シルクは独特のドレープ(ひだ)を生み出す。そのドレープの流れ方が実に優雅に見えたのである。

「はあ、宮内という人はこんな一面もあるのか」

宮内という経営者を私はほとんど知らない。言葉を交わした記憶もない。加えていえば、私も同じシャツを着てみたいとも思わなかった。
それなのに、記憶にくっきりと残っている。いったい何故なのだろう?

Tsu先輩と議論を交わし、寝苦しい夜に悩まされたのは、このパーティが終わったあとのことだった。