03.01
私と朝日新聞 3度目の東京経済部の44 ペンを手放す日が来た
経済部におさらばする時がやって来た。記憶を整理すると、1998年ではなかったかと思う。それとも1999年だったか。
ある日、経済部長に呼び出しを受けた。勤務時間中に経済部長に呼び出されるということは人事異動の通告である。財界担当というのは、経済部の古株がやる仕事だから、もう経済部内に行き先はない。さて、私はどこに行くのだろう?
築地の朝日新聞東京本社は正面玄関を入るとすぐに階段が始まり、上って左折するとガラスのドアがあって受付がある。その受付の後ろが広い空間になっており、喫茶空間とでもいいたくなるこの場所でお茶が飲める。一角にはミロのヴィーナスが置かれている。1962年にルーブル美術館から朝日新聞が本物を借り出して東京と京都で展示した。その記念に作った実物大のコピーである。さて、どうやって作ったのかは聞き漏らした。
ここで経済部長と会った。
「異動ですか?」
「よく分かったな」
この部長、私を嘗めているらしい。執務時間中に呼び出される案件が他にあるか?
「どこですか?」
「電子電波メディア局に行ってもらう」
電子電波メディア局の仕事は2つある。
1つは朝日系列のローカルテレビ局の監督である。監督というと大げさだが、朝日新聞は各ローカル局に出資しており、株主として社外取締役になり、役員会に出席して朝日新聞に提出するレポートを書くのが主な仕事だ。
もう1つはWebページの制作、管理である。
私はローカルテレビ局の管理をする部署に行くとのことだった。これまでは記者だったが、これからは企業としての朝日新聞の経営の一端を担うわけだ。なんとか部長という役職名があったが、どういうわけか記憶にない。
「はあ、新聞記者はクビになったわけですね」
50歳になる直前の異動だった。記者寿命が尽きたということか。
財界担当になって、時折次の職場を考えたことがある。先に書いたように、経済部内ではもう行き先はないだろう。とすれば、望みうるのは論説委員になるか、編集委員になるかである。
論説委員とは社説を書く仕事である。社説? ちっとも面白くないから誰も読まない記事を書くのは性に合わない。第一、あんな文章は書こうと思っても書けない。
であれば、編集委員を狙うか。編集委員とは専門記者の別命だと説明される。その1面は確かに持ちながら、他面では不要品を放り込むロッカーのようなものでもあった。各部で抱えきれなくなった古手の記者を送り込むのである。
「ま、どちらでもいいではないか。編集委員になればペンを持ち続けることが出来る」
さて、編集委員の立て前は専門記者である。何を専門にしよう? あれこれ考えた。考えた末、どうやら私はものづくりに関心を持っているように思えてきた。たいした知識は持ち合わせていないが、先端技術、メーカーの新製品開発、日本のものづくりを支える職人さんの技などには強い興味があった。
「よし、ものづくりの専門記者を目指そう!」
とは思っていたが、私はそのための猟官運動ができるような人間ではない。
「私、ものづくり担当の編集委員になりたいんです。お願いします」
なんて頭を下げるなんて出来るはずがない。出来ていたら、車内でもう少し上に行ったのかもしれないが、そんな自分の姿をイメージするだけでゾッとするのが私である。
だから、編集委員を目指したというのは大げささな表現だろう。
「編集委員になれたらいいな」
と密かに思い続けたというのが正確な表現である。密か、だから、人事権限者である経済部長が知るはずもない。その密かな思いが実現しなかったのは、考えてみれば当然のことである。
目前の部長が、なにやらファイルを開きながらいった。
「お前、結構特ダネ記者だったんだな」
人事権限者である部長は、個々の記者の仕事のぶりの記録を持っているらしい。その記録によると、私は「特ダネ記者」に分類されているのか。
「だったら、これからも記事を書く仕事させて下さいよ」
と口まででかかったが、グッと抑えた。もう人事異動は決まったのだ。今さらジタバタしてどうなる?
いわれてみれば、それなりに1面トップを飾る特ダネを書いてきた。抜かれて真っ青になったこと(トヨタ自動車—GMの提携)もあるが、勝敗でいえば勝ち越しただろう。
だが、私が目指した記者像は違っていたはずだ。私は世の中をより良くするお手伝いをしたいと思って新聞記者という仕事を選んだはずである。貧困が存在しない、みんながそれなりに満足して暮らせる社会にするには、みんなが知るべきことを知らねばならない。新聞記者とはみんなが知るべき事実を記事にする仕事だと信じてこの道に入ったはずである。
それがいつの間に「特ダネ記者」になったのだろう? 私は、私が書かねばならないと思っていた記事を1本でも書いたろうか? 私の記事で少しでも世の中が住みやすくなったか?
ひょっとしたら私は、取材競争にのめり込むあまり、初心を忘れていたのかな?
ペンを手放すことが決まった日は、様々なことを考えさせられた日であった。