2024
03.02

私と朝日新聞 電子電波メディア局の1 琉球朝日放送に行った

らかす日誌

さて私は、電子電波メディア局のなんとか部長になった。前回書いたように、与えられた仕事は朝日新聞が出資しているローカルテレビ局を、出資者の立場から管理・監督することである。とはいえ、それまでは取材と執筆しかしたことがない私である。いったい何をすればいいのか? 何が出来るのか?

私に割り振られたのは、琉球朝日放送、山口朝日放送、テレビ大分の3局だった。前2局は文字通りテレビ朝日系列で、放送する番組は主にテレビ朝日から配信を受ける。最後のテレビ大分は日本テレビ、フジテレビのクロスネット局で、テレビ朝日系列ではない。ところが、朝日新聞はここにも出資していたらしい。前日までボールペンと取材ノートを持って走り回っていた(というのは大げさだが)ブン屋が、朝起きてみたら3つのテレビ局の役員様になっていた。もっとも、給料をくれるのは朝日新聞だけだから、収入が増えたわけではない。

では、社外取締役とは何をする仕事なのか。年に4、5回開かれる役員会に出席するのである。役員会終了後に開かれる宴会に出て酒を飲むのである。いってみれば、それだけやっておけば仕事をしたことになる。実に気楽な商売である。

「いや、役員会なのだから、丁々発止の議論をするのではないか?」

といぶかられる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、お考え頂きたい。私は直前まで財界担当の新聞記者であった。テレビ局の経営については素人である。ローカルテレビ局が置かれている経営環境も知らないし、そもそもテレビ局をどう経営すればいいのかなんて考えたこともない。確かに経済記者として、様々な企業の経営を取材した経験はある。しかし、経営の断片を取材して記事にする仕事と、あらゆる事を考えて会社を切り回すこととは似て非なるものだ。役員会の席上で、私に何が言えようか。ただ、配付された資料に目を通し、皆様のお話を拝聴するに徹するしかない。
そんな仕事なのである。

琉球朝日放送は沖縄県那覇市にある。
初めて役員会に出席する日、私は羽田から飛び立った。沖縄は未踏の地である。学生運動を少々かじっていたからだろうか、沖縄の悲惨な歴史、米軍基地を抱える現状については少しばかりの知識と思いはある。初めての役員会出席に、私にも似合わず少しばかりの緊張感があったのは、そのためかもしれない。

だが、私を迎えて下さった琉球朝日放送の皆さんは、温かく歓迎して下さった。株主としての朝日新聞を代表してきているのだから当然なのかもしれないが。中でも東京駐在の亀川さんには親しくして頂いた。東京での呑み仲間になったのである。

沖縄である。役員会はせいぜい2、3時間で終わり、夜の宴会までは時間がある。その空き時間を生かして、ある時はひめゆりの塔に足を伸ばした。米軍嘉手納基地を見に行ったこともある。ハイヤーを借り切って沖縄本島を一周し、北端の辺戸岬で

「沖縄が日本に返還される前は、ここから本土を見やりながら、見えるはずのない本土への復帰を叫んだものです」

と解説してくれたのは亀川さんだった。沖縄には日本近現代史の悲劇がいっぱい詰まっている。私もアメリカの施政権下にあった沖縄に思いを馳せた。といっても、観光旅行に少しばかり羽が生えた程度ではあったが。

那覇市では琉球朝日放送の方が宿泊先を手配して下さった。結構高級なホテルである。当時、朝日新聞の出張費は、確か1泊で2万円少々だった。

「おい、こんな高級ホテル、出張費で払えるか?」

と心配したが、なんとかその中で納まった。なにしろテレビ局である。泊まりがけでないと那覇に来ることが出来ない出演者が多数あり、地元のホテルと特別の契約を結んで特別料金になっているのではないか。
その部屋を見て驚いた。時計が1つもないのだ。腕時計があるから不自由はしない。しかし、これまで泊まったホテルには必ず時計はあったぞ、と思いながら部屋の備品を見ていると、

「当ホテルに御滞在中は、時をお忘れ下さい」

という趣旨のことが書いてあった。そうか、沖縄は日本を代表する観光地である。日頃は時間にがんじがらめに縛られる暮らしから、一時でも解き放たれてリゾート気分を満喫しろということか。
思わずにやりとしたくなる心遣いである。

私の次だったか、その次だったかに琉球朝日放送の社外取締役になったのは、初任地の三重県津支局で私の先輩だったI君だった。その折り、琉球朝日放送の亀川さんに酒に誘われた。何か話があるらしい。

「Iさんなんですけどね」

と亀川さんは話し始めた。

「私たちが用意したホテルに泊まってくれないんですよ、何でも、自分はそんなご大層な身分ではないので、自分でビジネスホテルを探す、というんです。どういうものなんでしょうね」

確かに、肩書きが朝日新聞の社員だけであればそれでいいとは思う。しかし、I君はもうひとつの身分を持っているのだ。琉球朝日放送の社外取締役である。琉球朝日放送には対外的なメンツもあるだろう。社外取締役がビジネスホテルに泊まってはメンツがつぶれるではないか。

ある時、I君に

「ホテルは放送局が用意したところに泊まれよ」

といってみたが、彼は聴く耳を持たなかった。清貧であろうという志は評価するが、琉球朝日放送の立場を考えない無神経さにガッカリした。I君は大学生の時から価値観が全く成長していないらしい。自分の立場を考慮して行動を決める大人の判断ができないらしい。
それとも、2万余円の出張費を出来るだけ節約して、小遣いを増やそうとでも思っていたか? 琉球朝日放送が用意してくれたホテルは、割引料金(なのだと思う)であってもビジネスホテルに比べればはるかに高いからな。

沖縄といえば泡盛である。泡盛も、3年以上熟成させると「古酒(くーすー)」と呼ばれるようになる。8年以上の古酒になると、味が一段と良くなる。

「大道さん、これ持っていって下さい」

ある時、琉球朝日放送の専務(だったと思う)から桐の箱を渡された。

「これ、何です?」

「古酒です。大道さんに味わっていただきたくて」

ちょっと待て。古酒はそれなりの値段がする。ましてや、この古酒は桐の箱に収まっている。相当に高級な古酒だ。

「いただけませんよ、こんな高価なもの」

「いや、そんなことをおっしゃらずに、沖縄を自慢させて下さいよ」

とうとう押しつけられた。ホテルに戻って中を確かめると、21年ものの古酒である。これはいかん。いったい幾らする代物なのか?

国際通りに出て酒屋を探した。いただいた古酒の価格を確かめるためである。あった。値札を見て驚嘆した。2万円を超す価格が書いてあった。とんでもないものを頂いたものだ。

その古酒は、長く我が家で封も切らずに置かれていた。封を切ったのは、日立製作所のSa君が飲みに来た時である。後に書くが、私は日立製作所、富士通、キヤノン、朝日グループが立ち上げたデジタルキャスト・インターナショナル(略称=デジキャス)に出向した。そこで一緒に働いた仲間である。ある日、我が家でデジキャスの飲み会を開いた。Sa君ももちろん招いたが、別件があって参加できなかった。その後しばしば

「私は大道さんの家に行っていない」

とせがんでくるので、Sa夫妻を招待したのである。

封を切った古酒を飲み始めると、Sa君は

「これ、美味いですねえ!」

といいながら、次々とグラスを空けた。私はほとんど飲んでいない。アルコール度数は40度以上である。やがてSa君はぐでんぐでんに酔った。古酒のボトルを見ると、もう下の方に1〜2㎝しか残っていない。

「ずいぶん飲んだな。これだけ置いておいても仕方がない。残りは君にやるから持って帰れ」

と千鳥足で我が家を出るSa君に持たせてやった。嬉しそうな顔をして帰って行った。しかし、あの酔い方からすると、彼は翌日、妻女殿にこっぴどく説教されたのではないか?

件の専務さんには何かお返しをしたはずだが、記憶にない。それとももらいっぱなしだったか?

沖縄は楽しかった。