03.06
私と朝日新聞 電子電波メディア局の5 デジタルデータ放送局に関わった
もうひとつ仕事ができた。デジタル・データ放送局設立の準備である。
ご存知の通り、BSデジタル放送が日本で始まったのは2000年12月1日である。この日に向けて朝日新聞は、この電波を利用したデータ放送局の開局を目指していた。動画は流れない。文字と動かない写真だけの放送である。まだ動画が使えなかったひと昔前のWebサイトようなものだ。
「新聞社がなにゆえにテレビ放送に関心を持つ? すでに系列テレビ局もあるではないか」
とけげんな思いをされる方もいらっしゃるだろう。ここは少し説明が必要だろう。
当時の朝日新聞内には、テレビで新聞を配りたいという野望があった。私より先にこの仕事に携わっていた同僚Ko君によると、
「大道さん、知ってますか? 42インチのプラズマテレビだと新聞を見開きで映せるんですよ!」
というのである。当時の朝日新聞の年商額は4000億円弱だった。それでも利益が100億円強ほどしか残っていなかったから、3800億円〜3900億円ほどのコストがかかっていたことになる。
「そのうち、最も多いのが紙代、印刷代、配送費で、合わせると2000億円ほどになります。考えてご覧なさい。テレビで新聞を配ることができるようになれば、この2000億円がまるまる浮きます。朝日新聞は大儲けをする会社になるんですよ。それを実現するのがデータ放送なんです!」
真面目な顔をしてそう語る社会部出身のKo君に、私は冷たく言い放ったことがある。
「君ねえ、42インチのテレビをトイレに持ち込めるか? トイレで新聞を読む楽しみを奪うのか? そんな時代は絶対に来ない!」
いや、トイレに持ち込むというのは、テレビで新聞を読むことの困難さを表現する例えである。トレに持ち込まなくても、Ko君の表現では、42インチのディスプレーにいまと同じ大きさの新聞が写し出されることになる。読もうとすれば顔を30㎝〜50㎝まで近づけるしかない。そんな不自由な姿勢で新聞を、いやテレビを読むか? 絶対に読まない。
「君がいうような時代は、新聞1ページの大きさで、折りたたむことが出来る液晶パネルのような表示装置が出来るまでは来るはずがない」
と私は付け加えたのであった。
Ko君と似た夢を抱いた朝日新聞の幹部がいたらしい。いや、その患部の夢がKo君に乗り移ったのだろう。私が電子電波メディア局のなんとか部長になると、
「今日はSONYの技術者が来るから君も出てくれ」
などというお声がかかった。SONYが開発した、テレビを使ったデータ配信の技術について説明を受けるのだという。その頃の電子電波メディア局長はSONYが大好きだった。
そのうち、BS放送を使ったデータ放送局を作るという動きが出始めた。放送局は国から電波の割り当てを受けなければならない。BSデジタル放送の開始を前に、総務省はデータ放送局について
「新規参入を優先する」
という方針を出していた。つまり、電波の割り当てを求めて多くの事業者が手を上げた場合、既存のメディアは優先順位を下げる、ということである。つまり、朝日新聞単独でデータ放送局を作ろうとしても電波の割り当てを受けられる確率は限りなく低いということだ。
恐らく、当時の局長はSONYと手を組んで新会社を設立したかったのだろう。ところが結果を見ると、SONYはこの新しいメディアに関心を示さなかったようだ。そのため、朝日新聞はキヤノン、富士通、日立製作所と手を組んだ。この3社が5億円ずつ出資し、テレビ朝日、ABC(朝日放送)、名古屋テレビなど朝日系列のテレビ局も参加して資本金23億円のデジタルデータ放送局、デジタルキャスト・インターナショナル(デジキャス)を作ることになるが、それはしばらくあとのことである。
そして私とKo君は、そのデータ放送局の設立準備を命じられた。テレビ朝日、日刊スポーツ、ABCなどにも同じ使命を命じられた社員がおり、いってみれば朝日グループで設立準備を始めたのである。事務所は確か、東京・六本木のテレビ朝日近くに設けたのだった。