03.30
私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の3 ごまかし決算をやめよう!
人間とは暇をもてあますものである。もてあました暇は、ろくでもないことに使われることが多い。ホールの事務室に毎日通うようになった私は、おおむね暇であった。何しろ、ホール運営なんてやったことがないし、クラシック音楽なんて関心の外にある。しかも、事務室で顔を合わせる職員たちとは初対面である。何をしていいのか、何を話しかければいいのか。経営方針を持たない最高責任者は、部下たちに話しかける言葉の持ちようがない。
やむを得ず私は、ろくでもないことに手を染めた。朝日ホールはいったいどのように運営されてきたのかを知ろうと思ったのである。手がかりは事務室に残されている決算資料である。主催公演の収支も、入場客数も資料として残っている。
私は暇に任せて前年度の資料をめくり始めた。
確かに、年間の赤字は11億を超えている。主催公演の赤字額は、確か3000万円ほどだった。会社の予算額の2倍の赤字である。一体何故、こんな膨大な赤字が出るんだ?
項目を1つ1つ見ていった。人件費、物件費、事務費(そんな費目があったかどうかは記憶がさだけではないが)……。ずっと下までいくと、費目名は忘れたが、税金が挙げてあった。税金? こんなに赤字を垂れ流しているホールが税金を払っている?
ホールの先輩である部下に聴いてみた。
「すみません。朝日ホールがどうして税金を払っているんですか? 朝日新聞が払うのなら分かりますが」
「ああ、それですか。それは、会社が払っている税金を、確か面積割りだったかな、それぞれの事業に割り振ってるんですよ。ホールも朝日新聞の設備を使う事業だから、面積割りの税金が決算書に計上されるんです」
なるほど、企業経営とはそのようなものであるか。さらに目を凝らすと、建物の維持管理費、電気代、水道代、減価償却費などもある。これも面積割りでホールの事業経費に計算されているのだそうだ。
しかし、待ってくれ。ホールは確かに、朝日新聞の設備を使って運営している。しかし、ホールを閉じて他の事業にこのスペースを使っても、会社が支払う税金や維持管理費は同じ額必要である。とすれば、ホールの経費として計上されているのは単なる計算上のことであって、ホールの運営とは関係がないのではないか?
そう思いついて、念のためにそれらを赤字額から引いてみた。残ったのは3億3000万円ほどの赤字である。つまり、この額がホール運営の実質的な赤字額ということになる。
かつて、国鉄(現JR)の再建が問題になったとき、上下分離方式という考え方が現れた。土地や線路を持ち続ける費用と、列車を走らせる分とを分けて考えようというのである。土地や線路には誰がどうしようと一定の費用がかかる。だからこの分は取り除いて、運営だけでどれだけの赤字が出るか、黒字が出るかを表に出す。そうすれば、運営の巧拙がはっきりする。こうして国鉄という事業の運営方法を効率化しようという考え方だ。
「同じことをここでやろう」
私はそう決意した。国鉄の土地や線路にかかる費用にあたる税金や建物のの維持管理費は下の部分として分離する。私の経営目標は運営部分に集中する。よくよく考えれば、私は朝日新聞の社長ではなく、ホールの総支配人に過ぎないのだから、できるのは運営部分の赤字を減らすことだけである。目標は3億3000万円。
さらに、一般経費の中身を見ていくと、不思議な費用が計上されていた。ポスターの印刷代、チラシの印刷代、などである。
「ねえ、このポスターやチラシの印刷代って何ですか?」
これも、ホールの先輩である部下に聴いた。
「ああ、それですか。主催公演に使うヤツですよ」
「だったら、主催公演の費用に入れなくちゃいけないんではないですか?」
「はあ、そうなんでしょうが、誰が始めたんですかねえ。会社が収支を見るのは主催公演だけなんで、主催公演の収支を少しでもよく見せようと一般経費に潜り込ませるのが慣習になっているようです。お化粧ですよ」
お化粧といえば美しく聞こえるが、あからさまにいえばごまかしである。運営の中にごまかしが入っていては全体像がはっきり見えない。
「そうですか。でも、ごまかしはいけませんねえ。これからは、主催公演の費用はきっちり主催公演の費用として計上して下さい。今年度分はもう間に合わないかも知れないけど、4月からの新年度からは必ずそうして下さい」
経済部の記者ではあったものの、決算書の読み方なんて素人同然の私である。かつて初めて経済部員となったとき、舞台は名古屋だったが、すぐに上場企業の決算発表が始まった。
「えー、前期の売り上げは1256億5247万円あまりで、売上原価が1096億0853万円ですから、営業利益は「160億4394万円で……」
という話が連日続く。さすがに売上高ぐらいは分かるが、そこから一歩はいるとちんぷんかんぷんの世界である。
「えっ、利益には営業利益と経常利益がある? それっていったい何? 営業外利益? 特別利益? ウー、もう!」
即日私は書店に走り、「財務諸表の見方」などという本を買い求めてきた。誰でも分かる、と書いてあるが、読んでもちっとも頭に残らない。そのうち、確か決算発表が始まって1週間ほどたっていたと思うが、夕方会社に引き上げると風邪をひいたようで頭がボーッとしている。社内の診療所で薬をもらって飲んだら汗が噴き出して止まらなくなった。おまけに意識ももうろうとしてきた。
「すみません。体調が悪いので早めに引き上げます」
と断って会社を出たのが午後6時頃。住まいにたどり着き、妻女殿に布団を敷いてもらって横になるとすぐに眠りに引きずり込まれた。布団から出ることができたのは3日目である。その間、高熱が出て意識が薄らいでいた。
長いサラリーマン人生だったが、会社を病欠したのはこの時だけである。私は、
「そうか、あれが知恵熱というものか」
と思った。全く知らなかったちんぷんかんぷんの世界に放り込まれ、何とか理解しようとするがとんまな頭脳が受け付けてくれない苦しみが高熱となって表れたに違いないのである。
それほどの決算書音痴の私でも、ホールの決算書を眺めていれば、多少のことには気がつくのである。
・目標:3億3000万円の赤字を解消する。
・ごまかしの経理は止める。
この2点が私のスタートラインだった。
でも、経理のごまかしをそのまま踏襲していたO君は何を考えていたのだろう? 彼もかつては経済記者ではなかったか。取材先の企業が経理をごまかしていることを知ったら、批判記事を書いたのではないか? 批判とは、他者にだけ向けられるものなのか?
O君への不信が、じわりと芽を出した。