2024
04.03

私と朝日新聞 朝日ホール総支配人の7 あのー、音がずれているように聞こえたんですが……

らかす日誌

一筆啓上火の用心おせん泣かすな馬肥やせ

ひときわ優れた手紙文として習ったのは小学生だったろうか、それとも中学に進んでいたか。確かに、たったこれだけの文章で伝えたいことをすべて表現するとは、恐るべき手練れである。

いずれにしても、名文とは簡にして要を得たものだといわれる。伝えなければならないことを、できるだけ短い文章で、分かりやすく書く。それが現代の名文だというのである。
そういえば、新聞の文章も同じである。可能な限り短い行数で伝える必要があることを漏れなく伝える。新人のころ、そう教え込まれた。

「取材を終えたら、書きたいことをすべて書いてみるんでです。書き終わったら、その文章を削る。削って削って、これ以上削れないところまで削る。行間に押し込めることができるものは行間に押し込める。それがいい文章なんです」

というのは岐阜支局時代の先輩の言であった。

私は元記者である。簡にして要を得た文章に磨きをかけたはずだ。それなのに、朝日ホールの改革案をまとめるまでの半年間の話で、すでに連載6回を費やした。在任期間は2年半ほどだったから、この勢いでいくと終わるまでに20回近くかかることになる。ダラダラと続く長文悪文の典型だ。
私は、だからたいした記者にはなれなかったのか?

と己を疑いつつ、話を先に進めよう。

2005年度が始まった。2006年度の主催公演の予算も、

「1500万円以内の赤字」

であった。
そして、2005年度の主催公演は、前任のO君が買い取ったものばかりである。だからだろう、4月、5月と時がたつにつれて赤字が見る見る積み上がっていった。とにかく、客が入らない。552人収容のホールを、わずか100人ばかりの客が占拠するなんてしょっちゅうのできごとなので、当然である。
だが、すでに買い取った公演ばかりだから、私にできることは何もない。500万円になり、やがて1000万円を超えていく赤字を、呆然と見守るばかりである。秋口には主催公演の赤字は限度額の1500万円を超え、最終的には、確か2500万円に達した。自分の責任ではないとはいえ、はなはだ気持ちが悪い。

O君はおそらくこう考えた。

「1500万円まで赤字を出してよい。この公演は300人ほど入るはずだから赤字は30万円で済む。こいつの赤字見込額は20万円だ。あれは100万円……。よし、まだ130万円残る。これも全部使わなくっちゃ」

O君はクラシック音楽が好きなのだろう。大好きなクラシック音楽を守り育てるために、将来が期待出来そうな若手演奏家に肩入れしようとしたのかも知れない。だから、この人も、この人も、と公演を買い取った。
計算違いは、ほとんどの公演の見込み客が予定を下回ったことだった。30万円だったはずの赤字は50万円に膨れ、100万円は200万円になった。こうして、この年も、たった1つの目標である「赤字1500万円」すら達成出来ず、トータルの赤字は前年度とほぼ同額の11億5000万円前後に膨らんだというわけだ。

O君は、クラシック音楽に何の思い入れもない私の反面教師である。

こうした中、担当員たちは次々に翌年度に買い取りたい公演のリストを持ってきた。それを定例の会議で提案する。
私が確かめたのは1点だけである。

「それ、確実に満席なるか?」

朝日ホールは慈善団体ではない。事業団体である。たった100人しか入らないコンサートのために赤字を垂れ流すいわれはどこにもない。
私が拒否権を発動するまでもなく、見込み客数がホールの収用人数にはるかに達しないものは、会議で

「これはやめようよ」

という意見が誰からか出て、買い取りを止めた。私の方針は少しずつ浸透し始めた。

困ったのは、連続公演である。
例えば、1人のピアニストによる、モーツアルト全曲演奏(というものがあったかどうか記憶にはないが)などという企画公演である。全曲を演奏するのに、1回の公演が2時間として12回かかる、などというヤツを、全12回買い取り予約しているものがいくつもあったのだ。それもせめて毎回400人の客が入っていればあきらめもつくが、最初から100人前後の、

「これ、演奏者のお友達関係しか来てないんじゃないの?」

というやつが、2年も3年も先まで朝日新聞主催公演として行うことになっているのである。赤字は垂れ流しだ。どうしたらよかろう?
とはいえ、すでに音楽事務所、演奏家は12回続ける前提で準備を進めている。突然打ち切りを宣言すれば彼らは困るに違いない。さらに、この12回連続公演は、朝日新聞社の会社としての約束である。それを、支配人が替わったからといってひっくり返すようなことがあれば、企業としての朝日新聞の信頼度を落とす。
私たちは、代わった大統領が、それまでの大統領が結んだ約束を反故にするようなどこかの国と同列に見られてはいけないのである。

しかし、何もしないわけにはいかない。担当者には、音楽事務所、演奏家に、連続公演の回数を減らすことはできないかを打診させた。無理だという返事がほとんどだったと思うが、それは継続することにした。収支より信用を大事にしたのである。

そうそう、このころ面白いことがあった。
支配人はすべての主催公演は客席で聴く。それが仕事らしい。クラシックをこよなく愛する人なら役得を大喜びするだろうが、私の耳にはほとんどのクラシック音楽は豚に真珠である。つらいこと、この上ない。

その日はチェロの独奏会であった。仕方なく客席で聴いていると、時折音がずれる。半音もずれることはないが、微妙に周波数が違う音が出ている。そして、1音がずれると、しばらくの間ずれが修正出来ないようで、次々にずれた音が出てくる。いくらフレットがないチェロではあっても、プロの演奏家がこんなに音を外すか? それとも、ひょっとしたら私の耳がおかしいのか? そんな不思議な気分で演奏会が終わると事務所に戻った。

「大道さん」

と声をかけてきたのは、その演奏家の担当員だった。私の部下である。

「これから銀座に出て、あのチェリストと飲むんですが、ご一緒にいかがですか?」

この担当員は、このチェリストが大好きなようであった。大好きなプロの演奏家と酒が飲める。浮き浮きしている様子が伝わってきた。であれば、支配人としてご挨拶せねばなるまい。ご挨拶をするいい機会でもある。

「わかった。行こう」

こうして、我々は銀座に出向いた。

分からないことは聞く。それが新聞記者のイロハのイである。知らないことを知ったふりするのは、三流でしかない。

「そうだ、せっかくの機会だから聞いてみよう」

私がそう思い立つまでに、飲み始めて30分もたっていたろうか。プロの演奏家に聞いてみよう、教えていただこう、と思ったのだ。

「1つだけ質問させて下さい。先ほどの演奏会で、時折音が微妙にずれていたように私の耳には聞こえたのですが、あれは私の聞き間違いでしょうか? それとも、意図的に音をずらすのは演奏の1つのテクニックなんでしょうか?」

質問はそれだけである。当然、お答えいただけると思っていた。答が聞ければ、私はまた1つ賢くなることができる。
ところが、なのだ。彼の演奏家氏は、私が質問を終えるとプイ、と横を向き、どこかに行ってしまった。私の質問は無視されてしまった。

えっ!

というのが私の反応だった。どうして無視される?
しばらく考えてひとり頷いた。逆鱗に触れたらしい。聞いてはいけないことを聞いてしまったらしい。この人、自分が音を外したことに気がついていたのだ。意図もせずに音を外してしまっていたのだ。あ、外しちゃった、と慌てるから、それからしばらくは外れた音ばかりが出してしまったのだ!

おそらく、クラシックの演奏に詳しい人なら、触れてはいけない、絶対に聞いてはいけないことだったのだろう。そこに、クラシック音楽の門外漢であると堂々と公言するド素人の私が、素朴な質問をして、触られたくないと思っていた鱗に手を触れてしまったのだろう。
素人とは恐るべきものである。

ちなみに書いておけば、私がいたころの浜離宮ホールで、確か7日間だったと思うが、世界的バイオリニストの五嶋みどりさんの連続公演をやった。朝日新聞の主催である。
さすが、世界の檜舞台で演奏を続けている人である。素人の私でもすばらしさが分かる演奏会だった。それでも、1曲で1,2箇所、音が外れるのを聞いた。フレットのない楽器の演奏とは、それほど難しいものらしい。

「この人は、少なくとも私の耳には、1音も外してない」

と感心したのは諏訪内晶子さんである。誰かにサントリーホールでの演奏会のチケットをいただき、気は向かないが足を向けたときのことだった。

「そうか、バイオリンで1音も外さずに弾ける人もいるんだ」

こんな演奏会を数多く聞いていれば、私にも

「プロの演奏家に向かってこんな質問はしてはいけない」

と分かっていたはずだが……。
もう一度書いておこう。素人とは恐ろしいものである。隠蔽され続けていることを、巧まずして表沙汰にしてしまうのだから!