2024
04.29

私と朝日新聞 事業本部の7 朝日新聞と禁煙とルールと

らかす日誌

朝日新聞東京本社を離れる前に、もうひとつだけ書いておかねばならないことがある。

たばこ

である。
かつて朝日新聞は、社内のどこでも喫煙自由であった。新聞記者は原稿を書く。スラスラと流れるように文章が生まれてくれれば苦労はないが、時として、というか、しょっちゅう行き詰まる。さて、この後どう文章を続けたらいいのか? そんな時、ついついタバコに手が伸びる。火を着け、煙を吸い込む。いや、タバコを吸ったから名文が書けるわけではない。おそらく、原稿を書いている最中の頭脳ではシナプス間を激しく神経伝達物質が飛び交い、発熱しているはずである。過熱した頭脳からはまともな文章は浮かばない。その解熱剤がタバコなのである。

というのは我田引水の説明である。現実には、タバコを吸わないのに私より遙かにみごとな文章を生み出す人がいる。タバコなんてたいして役に立ってくれてはいないはずなのに、私と同じ考えを持つ記者は山ほどいた。編集局のあちこちでタバコの煙が立ち上る。締め切り間際ともなると、編集局には換気装置もあるはずなのにタバコの煙がたちこめる。そんな会社だった。

それをそのまま継続していれば、私にとっては別に問題はなかった。だが、タバコをこよなく愛する朝日新聞記者多数の意向に反して、タバコに対する世論は年々厳しさを増した。

「君ねえ、タバコの健康被害を最初に指摘したのはいつの誰だか知ってる? ナチスなんだよ。タバコが嫌いだったヒトラーが学者にタバコの害を調べさせたんだ。いま言われているタバコの害は、あの時代に全て指摘されていた。それでもねえ、ヒトラーですらタバコを追放することはできなかった。ナチスの幹部に愛煙家は多かったんだ。それなのに、民主主義の世の中であるはずの今、愛煙家が追放されつつある。ヒトラーですらできなかったことを、民主主義の名の下で遂行する。民主主義って恐ろしい政治システムなんだねえ」

そんな反論を加えたところで、超清潔社会を目指す世の中でタバコ撲滅運動は下火になることはなかった。そして、タバコを愛する人間が主流派であったはずの朝日新聞も、世論には刃向かえなかった。刃向かえず、タバコの健康被害を紙面で報じるばかりでなく、社内でも喫煙者を抑圧し始めたのである。

まず、社内に喫煙ルームができた。タバコを吸いたくなれば席を離れ、その部屋まで足を運ぶ。顔見知りがたむろしている。喫煙習慣を持つという一事を持って差別待遇を受けている難民たちである。窓辺に立ち、あるいは椅子に腰を下ろし、淡々とタバコを吸う。最初は見知らぬ朝日新聞社員ばかりだが、3度、5度と通っている内に顔見知りになる。雑談が始まり、やがて仕事の話につながる。

「へー、あなたの局ではそんなことをやっているんだ」

そんなところまで話が延びると

「実は今、こんなことを考えているんだが、あなたの局がやっていることと連動できないかな」

と話が発展する。情報交換、新規ビジネス創出の場である。

ところが間もなく、その喫煙室がなくなった。屋内は全面禁煙である。ビルの外に灰皿が置かれ、そこが喫煙場所になった。

浜離宮朝日ホールにはクラシック音楽演奏者が毎日のごとくやって来る。クラシック演奏家といえば謹厳実直を絵に描いたような人格を想像しがちだが、彼らには意外に喫煙者が多い。演奏の前、演奏の中休みに彼らはホール事務所の外に設けられた灰皿の周りに集った、私もその仲間に加わる。

「ごめんなさいね、おかしな会社で。あなたたちにまで不自由な思いをさせて」

朝日新聞を勝手に代表して彼らから喫煙の自由を奪ったことを謝罪するのは私の務めであった。

それなのに。ああ、それなのに、それなのに。

ある日私は役員フロアに行く用事があった。築地にある朝日新聞旧館の、確か15階であった。ここで当時の秋山社長に

「社長は朝日新聞の未来をデジタルに賭けていらっしゃるようですが、朝日新聞にデジタルの世界で勝機はありますか? あの世界は一攫千金の世界です。毎日カップラーメンをすすりながら床でごろ寝して、24時間労働で一発あてることを夢見る人たちの世界です。朝日新聞の社員にそんな真似が出来ますか? そもそも、デジタルで勝負するのに、朝日新聞の優位性はどこにあるのですか?」

などとご意見申し上げたこともある。役員フロアだからと行ってビビる私ではない。

だが、それを見た時はカッとした。呼ばれた部屋に灰皿があった。吸い殻が山になっている。もちろん、部屋にはタバコの臭いが染みついている。ここは、経済部から出た専務の部屋であった。彼はタバコを1本抜き取ると、100円ライターで火を着けた。

「ちょっと待ってよ。あんたたち、経営者は、屋内全面禁煙を決めて我々社員に従わせているではないか。その、あんたたちは自分の部屋でタバコをスパスパ吸っているのか? 自分ができないこと、やる気がないことを社員に強いるのが、朝日新聞の経営者か? 朝日新聞には支配する連中のルールと、支配される我々のルールがあるのか? 自分たちで決めて部下に強いているルールを、決めたあんたが破るとはどういうことだ?」

「朝令暮改とはいわぬ。朝決めたルールは朝日新聞のほとんどの場所で守られている。それなのに、そのルールを決めた権力者だけは朝からそのルールを破っている! 法治国家であるはずの日本で、権力者だけは自分が決めたルールを平気で破る。ろくな組織ではない。そんな組織が長続きするはずがない。独裁主義国家ならいざ知らず、あんたには人の上に立つ資格はない!

そんな思いをその場で口走れたら、私も男の子であったろう。だが恥ずかしいことに、出かかった言葉をグッと呑み込んだ私は、やはりサラリーマンに過ぎなかった。

ま、朝日新聞とはその程度の事業体で会った。