04.30
私と朝日新聞 桐生支局の1 桐生に引っ越した
2009年3月31日、私は桐生に引っ越した。定年後再雇用された記者人生の始まりである。
赴任前、妻女殿に
「どうする? 一緒に来る? それとも横浜に残る?」
と聞いた。何をどう考えたのかは知らないが、妻女殿は
「桐生に行く」
と返答された。
であれば、横浜の家があく。2つのことを考えた。
①この際、家をリフォームする。我が家は1984年秋に完成した。それからもう四半世紀である。水回りに不安があった。であれば、2階にあるキッチン、トイレ、風呂を改修しなければならない。折角手を入れるのなら、ダイニングルームと私が寝室に使っていた6畳間を一体化してリビングダイニングにしたい。ついでに、1階の部屋にも手を入れたい。ステップフロアをなくし、本棚を増やす。本が傷まないように換気にも気を使いたい。
そんな構想を持って、リフォーム業者と一緒に使う設備を見に行った。
システムキッチンを見る。予算(600万円ぐらいで済めばいいと思っていた)内に納めるには、このシステムキッチンを使いますと示される。だが、その横にはもう1つグレードの高いシステムキッチンがある。その隣には、もっとグレードが高いものがある。
「せっかくリフォームするんだからね」
私と妻女殿は、どんどんハイグレードの設備に目移りする。
それはシステムバスも同じである。キッチンの収納棚も同じである。システムキッチンと一体化するダイニングルーム側の収納棚も同じである。便器も高い方が良く見える。高いものは安いものに比べて魅力的である。
おかげで、600万円に抑えるはずだったのに、1100万円までコストが膨らんだ。
「おい、ちょうどにしろよ」
とリフォーム業者に迫ったが、受け入れられなかった。
仕方がない。これは、我が夫婦の老後(60歳であれば、すでに「老」なのかも知れないが)を考えての投資である。手持ちの金は激しく目減りするが、受け入れるしかないか。まだ働くのだし、何とかなるのでは?
②老後を考えて我が家をリフォームした。しかし、私と妻女殿は4月からは桐生の住人である。いずれはこの家に戻るとしても、当面は空き家になる。
そこで考えた。次女一家が同じ横浜市鶴見区でマンションを借りていた。車で15分〜20分の距離である。
「私たちはこれから7年、この家を離れる。その間、この家に住んでくれないか」
と私が申し出た。家とは住む人いなければ劣化するものである。私たち夫婦がいない間、この家に住む人が必要だ。次女にとっては自分が育った家である。それに、いま住んでいるマンションから近い。旦那の出勤にもたいした影響はない。悪いことではなかろう。いや、家賃はいらない。歯医者の開業資金の一部にしてくれ。
こうして、リフォームなった我が家には、次女一家が住むことになった。夫婦と長男・瑛汰の3人暮らしだ。かつては親子5人が暮らした家である。狭いはずはない。
こうして私は3月の半ばに下見のために桐生に行き、いよいよ3月31日に引っ越したのである。次女が手伝いに来てくれた。
新しい住処は、桐生市宮本町にあった朝日新聞桐生支局である。朝日新聞の持ち物で、築40年近い木造2階建て、見るからに古屋であった。
「おい、大丈夫か、この家?」
事務室は増築されたらしく、やけに横に長い部屋だった。そこに、たしか事務机が2つと、ソファが置かれていた。生活する空間は100㎡程度か。まあ、夫婦2人である。何とかなる。子どもたちが遊びに来てもとまれうことが出来る部屋もある。
引っ越し荷物はなかなか片付かない。そのうち昼になった。昼飯を食べねばならない。とはいえ、どこに行けば昼食にありつけるのだろう?
車で街中まで出た。食べ物屋を探した。見つからない。うろうろしているうちにデニーズ(いまはなくなった)があった。
「仕方がない。ファミレスは嫌いだが、急場しのぎだ。ここで食べよう」
夕方までかかっても、荷物は片付かなかった。次女たちは午後4時ごろには帰途についた。我々夫婦は荷物が散らかったこの家で寝ることを断念し、隣町である太田市薮塚のホテルに宿泊した。記憶によると天皇が泊まったホテルとの触れ込みだったが、たいしたものではなかった。
こうして、私の桐生暮らしが始まった。