2024
05.02

私と朝日新聞 桐生支局の3 怪文書事件について

らかす日誌

さて、前回積み残した怪文書事件を説明しておこう。

当初私が耳にしていたのは、私の前任の支局長が当時の大澤市長に関する怪文書を作った、という程度でしかなかった。赴任して支局に残されていた書類に目を通しても、事件の後処理の話ばかりである。朝日新聞の誰かはわからないが、手土産を持って関係者を回り、謝罪を重ねたらしい。会社として謝罪するほどだから、非は前任の支局長にあるのだろう。いったい何をやらかしたのか?
とは思いながら、あえて取材して回ることもないか、と放っておいた。

私が桐生に赴任する前、

「桐生に行ったらこの2人に会いなさい。桐生の70%はこの2人でわかる」

とアドバイスしてくれた先輩がいた。私を強引に柔道の練習に引きずり出した社会部の I さんである。その1人が、何度も「らかす」に登場している「桐生の実力者O氏」である。彼の自宅は宮本町の朝日新聞桐生支局からほど近かった。彼を訪ねたのは赴任して1〜2週間後のことである。当時O氏は桐生の市議会議員であった。

「初めまして。今度こちらに赴任した朝日新聞の大道です」

と型どおりのあいさつをする私に、彼はイヤな顔をしたらしい。あとで聞くと、彼は怪文書事件に巻き込まれて飛び回る羽目に陥り、それ以来、

「朝日の記者は顔も見たくない!」

と思い続けていたというから、イヤな顔をするのもやむを得まい。
だが、こちらは鈍感さが売り物の私である。そんなことには気が付きもしない。

「こちらに来る前に、先輩の I から、桐生に行ったら是非あなたに会えといわれまして。はい、よろしくお願いします」

O 氏もそこは大人である。丁重にあいさつする初対面の相手を追い返すような真似はせず、何となく付き合ってくれた。それが始まりで、鈍感な私は足繁くO 氏を訪ねるようになった。
そして、人をたらし込むのは新聞記者の得意芸である。O 氏は徐々に私に心を開くようになった。

「あなた、前の市長だった大澤さんをめぐる怪文書事件を知ってますか?」

と彼が口にするまでに、さてどれだけの時間がかかっただろうか。以下は、彼に聞いた怪文書事件である。

大澤市長が市内の建設業者と癒着している、という怪文書が出回った。1999年夏、桐生第一高校が夏の甲子園で優勝した。大澤市長は地元代表を応援すべく、甲子園まで出かけた。その日、やはり桐生第一高校応援の名目で甲子園入りしていた桐生市内の建設業者数社の偉いさん甲子園の応援席に座り、夜、大澤市長と建設業者が旅館で市の公共事業について談合した、という内容だったという。怪文書の現物は残っていないので、以上はO 氏の話による。

「しかし、その怪文書の筆者が朝日新聞支局長であるとは、どうしてわかったの? 怪文書って匿名で出すものでしょ? 出所がわかったら怪文書にはならないもんね」

当然の疑問を口にした。今どき、文章を書こうと思えばパソコンを使うのは常識である。パソコンで書いた、筆者名のない文書の筆者をどうしたら特定できるのか。

「それが、手書きの怪文書だったんだよ」

その怪文書を見た大澤市長は烈火のごとく怒ったらしい。怒って、その文書を群馬県警に持ち込んだ。筆跡鑑定をするためである。そして、当時の朝日新聞桐生支局長の筆跡と90%一致するとの結論が出た。

「それで、市議会は百条委員会を設置して調査を始めたのよ。俺なんかてんてこ舞いしたんだわ。それ以来、朝日新聞記者の顔なんて見たくもない、と」

百条委員会は地方自治法第100条に基づいて設置される特別委員会である。この委員会には百条調査権が与えられ、関係者の出頭を求め、記録や証言の提出を命令する権限がある。

へーっ、そんな騒ぎがあったんだ。それにしてもこの時代、手書きで怪文書を作るなんて、頓馬なヤツもいるものである。そもそも、談合の事実が合って裏付けが取れたのなら朝日新聞の紙面で記事にするべき話である。記事にしなかったということは、噂はあっても証拠は見つけられなかったということだろう。だから、匿名の文書にしてばらまいたのなら、正義感を振り回すだけの、人権感覚のかけらも持ち合わせない、新聞記者の風上にも置けない阿呆である。記者は裏付けがないことを字にしてはいけない。
朝日新聞はひたすら恐縮し、3年たったからほとぼりも冷めたのではないか、と私を送り込んだ、ということか。やれやれ、大変なところに来たものだわい。

「それで大道君」

とO氏は話を継いだ。

「あんた、大澤さんに会ってみる?」

当時、大澤氏は前回の市長選で落選し、政界から身を引いていた。

「いや、そんな騒ぎがあったのなら、大澤さんはあなた以上に朝日新聞記者の顔は見たくないはずだ。会いたがらないんじゃない?」

「いや、あなたなら大丈夫だと思うよ。どう、会ってみる?」

しばし考えた。
私の前任者とそんないきさつがあったのなら、私だって会いにくい。会いたくはない。しかし……。
ふむ、歳を取るということは、こういう後処理をするだけの人生の経験を積んできたと見なされるいうことか。そういえば、朝日ホール総支配人としての主な仕事はクレーム処理だったもんな。朝日新聞と大澤元市長の間のわだかまりをとくというのも私のしごとか。

「わかった。じゃあお願いする」

「そう、それはよかった。大澤さんは町場で呑むのは嫌いだから、私の家で、ということにする。日程が決まったら連絡するわ」

その日私は夕刻からO 氏宅に出かけた。やがて大澤元市長が姿を現した。

「今度赴任した朝日新聞の大道です。前任者がご迷惑をかけたそうで申しわけありませんでした」

「あなたが大道さんですか。いや、信ちゃん(O氏には信一郎という名前がある)が是非会え、っていうんでね。まあ、とにかく呑みましょうよ」

事件の話はそれだけで終わった。大澤さんはにこやかに、いろいろな話をし、私は聞き入った。この方、首相を務めた福田赳夫氏の秘書だったそうだ。もちろん、いずれは国会議員に、という思いを持っていたのだろう。それが突然、桐生市長選に出ろということになった。自民党内の角突き合いが桐生市長選にまで及んだ結果である。

大澤さんの話を聞きながら、私は

「この人にとって桐生市長というポストは役不足だったのではなかろうか」

と感じた。話のスケールが大きいのである。地方都市・桐生の長では器が小さすぎたのではないか。話のおおよそは天下国家のことである。食糧安全保障が出るかと思うと、アジアの平和をいかに維持するかに及ぶ。桐生の経営はちっとも姿を現さない。この人は国会の赤絨毯を踏むべき人だったのではないか。

飲み会は2時間ほどに及んだろうか。その間、私は酒を流し込みながらちっとも酔わなかった。やはり緊張していたのだろう。

「や、楽しかった。また呑みましょうよ」

といって大澤さんは去った。それ以来、年に1度ほどO氏宅で杯を傾ける仲になった。その大澤さんは2021年5月、79歳で身罷られた。桐生での飲み仲間が一人減った。ご冥福を祈る。