05.03
私と朝日新聞 桐生支局の4 新聞記者として再出発しました
そろそろ仕事の話に入ろう。
私はスーツが嫌いである。男の魅力を引き出す道具といわれることもあるが、あの堅苦しさがいけない。ネクタイで喉元を締め付けるのもごめんである。だから、デジキャスの間は、記者会見に出る時以外はカジュアルな服で過ごした。朝日ホール総支配人時代も,主催講演で客を迎えなければならない日を除いて平ラフな格好を続けた。それは事業本部に席をえても変わらなかった。つまり、50代の私はほとんどスーツとは無縁の暮らしをしていた。
2009年4月1日、私は桐生支局長としての初仕事に臨んだ。新聞記者としての再出発の日である。まずは桐生市役所、桐生商工会議所へのあいさつ回りをしなければならない。他にどんな取材先があるかはまだわからない。だが地方記者として市役所はまず押さえておくべきである。商工会議所は地方経済の核だろう。だったら、ここにも顔を作っておくのは元経済記者の常識である。
その日、私は柄にもなく、スーツを着込んだ。会う人は全員初対面だから、フォーマルな服装でなければ、などとあれこれ理由をつけてスーツを着るなんぞ、いま考えれば私も凡人である。
桐生市長は瓶山豊文さんといった。初のあいさつのため市長室に入ったのは、確かこの日である。
「これから桐生のことをいろいろと下さい」
と丁重にあいさつする私に、亀山市長は
「桐生はね、キュウトなんですよ」
といった。キュウト? とっさのことである。私はこの言葉がわからなかった。どんな漢字で書くのか、まったく思い浮かばなかった。だいぶ軽くなった脳みそをかき回し、キュウトに似た言葉を探した。市長が平然とキュウトというのだから、多くの人が知っている言葉のはずである。私が知らなくてどうする?
これかな? という言葉に行き着いた。九州・博多では朝飯におきゅうとを食べると聞いたことがある。学生時代のことだ。そうか、おきゅうとか。おきゅうとから丁寧語の「お」を除いて「キュウト」というのは、地元の話だからへりくだったのだろう。
しかし、おかしいな。おきゅうとは海草からつくる。海に面した博多で好まれるのは新鮮なおきゅうとが手に入るからだろう。しかし桐生には海がない。それなのにおきゅうとを食べるのか? 不思議な人たちではある。
そんな疑問は持った。しかし、私の頭にある「キュウト」につながる言葉は、おきゅうとだけである。この線で行くしかない。
「ああ、そうなんですか。私、大学が博多で、博多では朝飯におきゅうと食べるんですよ。桐生もおきゅうとを食べるとは知らなかったなあ」
亀山市長は一瞬、」キョトンとした顔をした。
「いや、その、キュウトというのは食べ物ではなくて、桐生は球技の町、ということなんです。漢字で書くと『球都』です。特に野球が盛んな町なんですよ」
「…………」
全く以てトンチンカンな会話であった。さて、「球都」も知らない新参者に、亀山市長はどんな感想を持ったのだろう? 彼とは紆余曲折があって、それは後に書くが、いまでは
「そろそろ酒でも飲まない?」
という仲になった。私は彼を亀ちゃんと呼ぶ。
桐生商工会議所の専務理事と面談したはそれからしばらくしてのことである。取材先の組織との付き合いは、最初にどの門を叩くかでその後の命運が分かれる。おかしな門を叩くと、その組織とまともに付き合うためには多大な労力を要する。最適の門を叩けば、その後の取材はスムーズに行く。
「大道さん」
と私に教えてくれたのは桐生市役所の職員だった。
「商工会議所の専務理事は元新聞記者です。だから、あなたの話がわかると思います。まず専務理事に会われてはいかがですか?」
そうか、元記者か。記者でありながら地元経済界と癒着し、定年後に経済団体に職を得たヤツは、そういえば朝日新聞にもいたな。私の嫌いな人種だが、取材の入口としては使えるかも知れないな。
私は彼に会いにいった。小一時間も雑談を交わしただろうか。最後に
「まず会頭にご挨拶したいので時間を取って下さい。時間が取れたら、電話でお知らせいただければ参上しますので」
「わかりました」
と言葉を交わして席を立った。
それから私は待ち続けた。1週間たっても1ヶ月たっても電話はなかった。2ヵ月を過ぎた頃、私は商工会議所会頭にあいさつするのをあきらめた。専務理事が、新聞記者との約束も守らない商工会議所である。組織の性格はトップに立つ人間による。この程度の人物が専務理事を務めている会議所なら会頭に会うのはムダというものだ。
私の判断は間違っていなかったと思う。その後、何かで当時の会頭の挨拶文を読んだ。毒にも薬にもならない駄文だった。世界経済も日本経済も論じられていたが、きっとどこかの雑誌から引き写したのだろうという、型どおりの文章だった。そして何より、衰退激しい桐生をどうするのか、という肝心な政策課題に、具体的な話がなかったのである。
あの専務理事とは、今に至るまで何度も顔を合わせている。いつも商工会議所会頭の鞄持ちとして、会頭の後ろに金魚の糞のごとく付き従っている。私と交わした
会頭の時間を取る
という約束を、彼はとうに忘れているのだろう。私はしっかり覚えていて、
「困った人ではあるな」
と思い続けている。