2024
05.07

私と朝日新聞 桐生支局の8 松井ニットの話

らかす日誌

取材というのは、まず

「これは記事になる」

という話をどこかで聞き込むことで始まるのがほとんどである。桐生支局で書いた初期の記事を拾っても

・イタリア・ペルージャ市の合唱団が県立養護学校でミニ公演⇒多分、みどり役所で聞き込んだ
・山中千尋さん⇒上に同じ
・みどり市の消防車がタンザニアに⇒上に同じ
・福祉タクシーが走っている⇒誰かに聞いた
・すぎの子幼稚園をソニー教育財団が表彰⇒桐生に記者クラブに資料が配られた

5つほど挙げたが、どれも取材をすれば記事になると思うから取材に出かける。それが通例である。

だが、私の松井ニット取材はこの原則から外れていた。まずあったのは、

「松井ニットの記事を書きたい」

という思いだったからだ
記事は5W1H、つまり、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、どういうわけで(Why)、どうした(How)を含むのを原則とする。世の出来事を伝えるのが記事なのである。だから

「松井ニットのマフラーは素敵だ」

と書いても記事にはならない。松井ニットでの出来事、松井ニットの行動を通じて、松井ニットのマフラーの美しさを表現しなければならない。さて、松井ニットとはどんな会社で、何をしているのかなど、まだ私は知らない。松井ニットには何か記事にになる話が都合よく転がっているだろうか?

幾ら考えても、先ずは行動を起こさなければ何も始まらない。私は電話でアポイントを取り、松井ニットに出かけた。桐生市の目抜き通りである本町通からちょいと入ったところにあった。玄関前の松が美しく剪定され、みごとな枝振りを魅せていた。

「はじめまして。こんどこちらに来た朝日新聞の大道です。『さくらや』さんでマフラーを見せてもらい、みごとな多色使いのデザインに惹かれまして、お話しを伺いに来ました」

さてその日、どんな話をしておいとましたのかは記憶にない。なにしろ初対面である。新聞記者とは嫌われ,敬遠される者である。応対したいただいた松井智司社長、松井敏夫専務のご両人とも

「この男、いったい何しに来たんだ?」

という疑念を持たれ、警戒感を抱かれても仕方がに。だから、それほど弾んだ会話にはならなかったはずだ、私としては、会社をご兄弟で経営されており、デザインと生産は智司社長が、営業は敏夫専務が受け持っていらっしゃることを知った程度が収穫だった。
このころ、智司社長は70歳前後である。

「こんなお年寄りが、あんな華やかなマフラーをデザインするのか?」

と以外の感に打たれた。齢を感じさせる風貌とあの華やかな色使いがどうしても頭の中で一致しなかったからだ。

記者とは雑談の名手でなければならない、とは私の持論である。人事百般、あらゆることを知ることは不可能だが、できるだけ知識の幅を広げておく。深くなくてもいい。雑談が交わせる程度の知識を蓄える。それを雑談に生かす。
雑談の相手は記者ではない。自分の話が記事になるなどと考える人は希である。そんな人々と雑談していると

「面白いじゃん、それ」

という話題が時々こぼれ落ちる。それを記者が拾い上げて記事にする。こうして、ニュースではない、人々の暮らしの一断面を切り取った「町だね」といわれる記事が生まれる。

最初はおずおずと始まったお付き合いだが、回数が増えれば互いに口数も増える。何回目にお尋ねした時だったろう、松井ニットはマフラーだけでなく同じ色使いのニット帽も作っており、がんの治療で頭髪が抜け落ちた人たちにプレゼントしている、という話が出た。

「これはいける!」

と早速、こんな記事にした。

カラフル帽子でがん患者に元気
全国10病院へ 感謝の言葉次々
桐生・松井ニット技研

縦じまの大胆な色づかいで、米国でも人気が高い松井ニット技研(本社・桐生市)のデザイン。そのおしゃれな編み帽子が、抗がん剤の副作用で髪が抜けてしまった、がん患者の頭を飾っている。同社がこの2年間で200人以上に贈った。「元気を取り戻すことができました」。感謝の言葉が続々と届いている。
同社のマフラーはニューヨーク近代美術館のデザインストアで、5年連続で売上げ1胃を続ける。専務の松井敏夫さん(66)が毎年、10種類前後の色を組み合わせた新製品を生み出している。編み帽子も同じデザインだ。
帽子を贈るきっかけは約2年前、大阪府高槻市の前田佳子さん(70)からの注文だった。
前田さんの女性の友人ががんで入院し、抗がん剤治療で髪が抜け、「スカーフだと滑り落ちてしまう」と困っていた。前田さんは新聞で見た松井ニットのカラフルなマフラーを思い出し、他の患者の分も含めて帽子を10個注文した。「少しでも患者さんの気持ちが明るくなれば」と思ったからだ。
同社では在庫が6個しかなかったため、残りはマフラーの端切れで作ると説明。その分の代金はいらないと伝えた。この対応が嬉しくて前田さんは松井さんに事情を打ち明けた。松井さんの気持ちが動き、毎月、帽子を10個ずつ前田さんを通じて患者に贈ることを約束した。
前田さんは国立がんセンター(東京都中央区)や福井赤十字病医院(福井市)などに声をかけ、いまでは10カ所の病院に贈っている。
「従来の毛糸の帽子はチクチクして不快でしたが、いただいた帽子は肌触りもよく、とてもおしゃれで気に入っています」「帽子をありがとう。これからもがんばります。4月からは学校に行けそうです」というのは前田さんが受け取った礼状の一部だ。松井ニットにも「すごい色の組合せがあったかい」「元気が出る」などの言葉が寄せられている。
松井さんの兄で社長の松井智司さん(71)もこの取り組みを後押しする。「贈る帽子はマフラーの端切れを使うので、端切れはいくらでも出ます。ご希望があるかぎり続けていきたい」
同社は1907年(明治40年)創業。資本金1300万円。従業員は社長を含め8人。

私が初めて書いた松井ニットの記事は以上である。話の中身からすると、主に敏夫専務に取材したらしい。いま読み返すと「」の部分(デザインは専ら智司社長がやっていた)もあるが、あの時は敏夫専務がそう語られた。仕方がない。

以来、私は見入られたように松井ニットの記事を書いた。翌年9月に書いた

桐生発マフラー英国へ
井ニット技研製品 ロンドンの美術館が販売
多色使い、見本市で一目ぼれ

という見出しの記事は、英訳されて朝日新聞が発行する英字新聞に転載された。こんな見出しである。

Gunma scarf maker aims to wrap up British market

wrap upとは「包む」という意味だが、きっとマフラーにひっかけて松井ニットが英国市場で頭角を現そうということを意味しているのだと思う。

あれからすでに15年。私が朝日新聞を離れると、智司社長は

「ストーリーのある物が売れる時代です。松井ニットのことを書いていただけませんか?」

と私に依頼された。喜んでお引き受けし、松井ニットのHPで連載をはじめたが、途中で

「ちょっと資金がショートしまして。申し訳ないが中断したい」

ということになった。が、すでに原稿は最終回まで書き上げており、

「いいですよ、無料で。最後まで原稿をアップしましょう」

と掲載を続けた。
その智司社長が亡くなり、社長になった敏夫さんが

「HPを続ける金がない」

といって来られたため、折角書いた原稿がもったいなく、こちらに移した。

そして先頃、敏夫さんが松井ニット技研を廃業した。
考えてみれば私は、初めてお目にかかった智司社長より年上になってしまった。親しくしていただいた智司社長が亡くなり、松井ニット技研も姿を消した。1つの時代が幕を閉じた思いに駆られている昨今である。