05.11
私と朝日新聞 桐生支局の12 桐生は震度6弱でした
2011年3月11日午後2時46分、突然地鳴りがしたかと思うと、家全体がガタガタと激しく揺れた。のちに東日本大震災と名付けられた大地震である。
その時私は、境野町に会社が借りた1戸建ての家にいた。事務室にいたから、何か原稿を書いていたのか。それとも暇つぶしにパソコンゲームでもやっていたか。
「いかん、これはすごい揺れだ」
とっさに思い浮かんだのは、来るぞ来るぞといわれ続けた関東大震災である。そうか、とうとう来たか。この日に備えて横浜の自宅は重量鉄骨、軽量発砲コンクリートで作った。直下型地震でも大丈夫なはずだ。いや、本当に大丈夫だろうか?
そんなことを考えながら居間にいってみた。まだ大地が揺れている。家も揺れている。見ると、50インチのプラズマテレビが前後に揺すぶられている。転倒防止のバンドは取り付けてあるから大丈夫なはずだが、あれが切れたらやばいな。そう思って私はテレビの揺れを止めようとテレビに触った。
のちにこれが、
「お父さんは地震の時、まずテレビを守りにいった」
と家族に揶揄されることになるのだが、なーに、家の中を見回して一番危なそうだったのがテレビだったというだけの話である。
「いったいどこの地震だ?」
テレビをつけた。東北地方の太平洋沖が震源地で、現地は大変なことになっているらしい。津波の恐れもあるという。
いや、大変なのは現地だけではないはずだ。私が担当する桐生地区だって、我が家がこれだけ揺れたのである。被害が出ている恐れがある。記者根性が爆発する。桐生の被害状況を取材しなければ!
自宅の無事を確認すると、
「子どもたちの無事を確認しておいてくれ」
と妻女殿に言い残し、すぐに車で桐生市役所に向かった。桐生での地震の被害に関する情報はまず市役所に集まる。それを取材しなければならない。
市役所に着くと、大勢の職員たちが屋外の駐車場に出ていた。
「どうしたの? なんで外に出ている?」
と聞くと、
「旧庁舎が崩壊するかも知れない、といわれたんです」
との返事である。
桐生市役所は市長室がある旧館と、旧館と鍵型につながっている新館で構成されている。新館の方は大丈夫だろうが、旧館は危ない、から全員外に出ろ、ということになったのだそうだ。
そんな現場を目撃することから、私の地震取材は始まった。
当時のスクラップ帳を繰ってみる。
・桐生市が震災がれきを無料で受け入れ
・桐生市議会、一般質問を中止
・桐生市が地震被災者向けの相談窓口を設置
・わたらせ渓谷鉄道、一部運行再開へ
・桐生市が日立市へ1日おきにパンや毛布を輸送
・桐生市のマフラーメーカー3社が2000本のマフラーを石巻市へ
・桐生市が日立市へ生鮮野菜を2トン
そんな記事が目白押しである。半月ほどたつと、桐生市の文化財の被害状況をまとめた。
福島県南相馬市から桐生に逃れてきた家族も取材した。話を聞き終え、
「何か不自由なことはない?」
と聞くと、桐生工業高校に進学することになった息子さんが
「パソコンがなくて困っている」
という。知り合いのパソコンオタクに
「使ってないパソコン、あるだろ? 南相馬から逃れ来てパソコンがなくて困っている少年がいる。出しなさい」
と揺さぶりをかけてノートパソコンを1台仕入れ、届けてあげた。役に立っただろうか?
そんなこんなで震災報道に追われた。
我がファミリーにも震災の被害者がいた。四日市に住む長女の一家である。全く以てタイミングが悪いというか、この3.11,なんと家族総出でディズニーランドに遊んでいたのである。あの一帯は埋め立て地である。かなり揺れたのではないか。
何とか携帯電話がつながると、
「いまねえ、ディズニーランドの近くのホテルにいる。電車も動かないしさあ。部屋なんて取れないから、これからロビーでごろ寝よ」
お前たち、四日市からわざわざ千葉まで出て来て震災に遭うとは、いったいどんな星の下に生まれてきたんだ?
やがて、計画停電が始まった。そんなことを言われたって、こちらに準備があるはずもない。
「仕方がない。計画停電の夜は暗くなったら寝るしかないな」
電池駆動だったか、充電式だったか忘れたが、LEDのランタンを貸してくれたのはO氏ではなかったか。しかし、ともに60を過ぎた老夫婦である。ランタンの光の下でやることなんてない。この明かりでは本も読めないし、もちろん、テレビは映らない。DVDを見ることもできない。やはり暗くなったら寝るしかない生活が続いた。
東北の被災地を思えば、どうということもない暮らしの不自由さではないか。そうとでも思わなければやっていけない日々が始まったのだった。