2024
05.25

私と朝日新聞 桐生支局の26 野鍛冶、小黒定一さんの話

らかす日誌

桐生の鍛冶屋、小黒定一さんとの縁を繋いでくれたのは、当時群馬大学医学部の学生だった斉藤悠さんである。

ある日、私は前橋市の群馬大学医学部に取材に出かけた。桐生市にある群馬大学工学部(現在は理工学部)の教授の子息が医学部の学生で、複雑な折り紙を折るのが趣味だという話を聞き込み、教授の部屋で作品を見て

「記事になるかも知れない」

と思ったのである。
その彼を待ち合わせ場所で待っている私に、声をかけてきた若者がいた。

「あなた、桐生から来られた朝日の記者さんですか?」

取材の際はカメラを持ち歩く。地方記者は自分で取材し、自分で写真を撮り、自分で原稿を書かねばならない。仕事の間はつねに一眼レフカメラをそばに置く。そんな人種は希だろう。だからそのカメラから私が件の記者であると見当をつけたらしい。

「そうですが、何か?」

この若者が斉藤君だった。私がこれから会おうとしていた折り紙作りの学生の友人で、この日、私が桐生からやってくることを聞いたという。

「実は、桐生で取材していただきたい人がいるのですが、お願いできませんか?」

彼はそう問いかけてきた。おっと、取材をして記事にするのは記者の仕事である。採り上げるに値する人なら、頭を下げてでも取材しする。

「それで、どんな人なんですか?」

私はこうして、鍛冶屋の小黒定一さんを知った。

斉藤君は言葉を尽くして小黒さんのすばらしさを私に納得させようとした。地金に鋼を乗せて刃物を作る昔ながらの鍛冶の技を守り続けてること、切れ味が鋭い刃物を作ること、客の求めに応じて様々な刃物を打ち出していること……。
いわれて、私はその店を知っていることを思い出した。小黒金物店の隣が動物病院で、桐生に連れてきた愛犬、「リン」のかかり付け医だった。「リン」は膀胱上皮がんを患っていたのである。
その動物病院を訪れた際に、隣の小黒金物店の店頭を見て、

「ずいぶん切れそうな鎌だな、鍬だな」

と見とれたのである。
が、私は農作業をする人間ではない。鎌にも鍬にも縁がなく、店に入ることはなかった。言われてみれば、店の隣に鍛冶場があったなあ……。その鍛冶場で槌を振るっていたおじいさんは、そんなにすごい人だったのか。

しかし、である。小黒さんが大変な腕の持ち主であっても、そのまま記事にするのは難しい。何かの企画記事なら採り上げることもあるだろうが、日常の紙面で「ニュース」として書くには、何らかの動きが要る。マフラーの松井ニット技研を初めて記事にしたのも、がんの治療で頭髪が抜け落ちた人たちにニット帽をプレゼントしているという「動き」があったから可能だったのだ。
小黒さんに関して、何か新しい「動き」はないか?

斉藤君と色々話してみた。やがて

「それで私、小黒さんの鍛冶場に通って仕事を教えてもらっているんですよ」

という一言で、

「これは記事にできる!」

と確信した。何でも小黒さんは弟子を取ることを拒み、特に医者になることが決まっている斉藤君については、何度頭を上げても

「じゃあ、教えてやろう」

とはいわなかったというのである。それで斉藤君は、「押しかけ弟子」になったのである。面白い!

その小黒さんと斉藤君を、こんな記事にまとめた。

鍛冶屋の弟子は医学生
渋った師匠も「楽しい」

師「頭よすぎてあと一手間がね」
弟「温度判断、温度計とぴたり」

農業や林業で使う刃物を造る「野鍛冶(のかじ)」も小黒定一さん(84)=桐生市広沢町2丁目=に「弟子」が生まれた。弟子は取らないと渋る小黒さんを説き伏せたのは群馬大学医学部5年生の斉藤悠さん。毎週土曜日、前橋の下宿先から通う。日暮れまで鎌や包丁、ナイフなどを2人で打ち続けている。
小黒さんは、地金に鋼(はがね)を乗せて刃物を作る昔ながらの鍛冶の技を守り続けている。1999年度に始まった県の伝統工芸士に最初選ばれた1人だ。いまでは彫刻家、板前、植木屋、自動車メーカーまでが「小黒さんの道具でなくては」と足を運んでくる。
鎌を作っていた新潟の親戚に14歳で弟子入りし、20歳で桐生に戻り、独り立ちした。切れ味が評判で、客は地元だけでなく、隣県や東京、神奈川、島根県からも来た。
これまでに人を使ったことはある。だが、釜だけでなく、客の注文に応じて、なた、ナイフ、包丁、はさみなど何でも作らなければならないため、「基本が身につかない」と弟子は断った、息子の充さんが高校を出て、唯一の弟子として鍛冶を継いだが、16年前、心筋梗塞で急死した。44歳だった。以来、1人で刃物を鍛えてきた。
一方、群大の斉藤さんは剣術を続け、日本刀も所有する。大学入学後、桐生市の研ぎ師と交流ができ、「自分でさやをつくりたい」と相談すると、「いい道具が必要だから」と小黒さんを紹介された。のみやナイフを作ってもらい,切れ味のすごさに感動した。
「こんな道具を自分でも作りたい」と1年半ほど前に弟子入りを志願。「弟子は取らない」という小黒さんに、「では、邪魔はしないから遊ばせてください」と頼み込み、日曜日に通い始めた。昨春から今年1月までは週6日通い、そのうち「ちょっとばかりのアドバイス」(小黒さん)を受けるようになり、「弟子」の座についた。
小黒さんは「斉藤さんは友達だよ」と言うが、後継ぎになるはずだった息子を亡くした寂しさが紛れているのも事実のようで、「斉藤さんが来始めてから、なんだか楽しいんだわ」
師匠から見た「弟子」の評価については「大学に行っている人は覚えが早いね。でも、頭がよすぎて先走り、要らないと思った手間を省く。その一手間で仕上がりが変わってくるんだけどな」とのこと。弟子は師匠について「火床(ほど)に入っている鉄を見て『いま200度ぐらい』などとおっしゃる。本当かなとレーザー温度計で測ったら200度でした。何回測ってもぴったり。職人の技ってすごい」
斉藤さんには昨秋から、包丁などの注文が入り始めた。独立できそうだが本業は医者の卵。「医者になっても、この技術はほかの人に伝えていきたいですね」。休日に志願者を集めて技を伝授する。そんな人生プランも描き始めているという。

2016年7月30日の朝日新聞群馬版に載った。自分で言うのも何だが、なかなか心温まる街の話題である。
後に私は、小黒さんの一代記を書くことになった。リンクを張っておいたので、関心を持たれた方は読んでみていただきたい。
また、この一代記を見て、毎日新聞が記事にした。


「元」ではあるが、記者が記事になってしまった。この記事を書いた高橋記者は

「小黒さんの事を書きたくて考えたが、これしか書けなかった」

と話していた。しかし、ライバル紙の「元」記者を記事にする度量の広さが嬉しかった。
その小黒さんは2024年3月、大往生された。合掌。

一方の斉藤君は、初めて挑んだ医師の国家試験に失敗。何を思ったか

「勉強する」

と言い残してフィリピンに行った。2度目の挑戦で無事に医師の資格を得たから、がんばったのだろう。いまはお医者さんとして活躍中である。