2024
06.08

私と朝日新聞 桐生支局の40 終わりにオムニバス風に

らかす日誌

さて、長々と書き継いできた「私と朝日新聞」も、今回をもって終わりとする。最後は雑多な話を順不同で集めることにする。

〇給与について
定年後再雇用期間の給与は月額16万円、ボーナスが年2回でそれぞれ15万円だった。つまり年収は額面で222万円である。そこから税などを引かれるから、手取額は200万円を割り込む。確かに60歳から基礎年金は出るが、それを加えても収入は現役時代の10分の1とまではいわないが、激減したことは間違いない。
だからであろう。私は桐生に来てしばらくのい間、お金を使うのが怖かった。1000円札を財布から抜き取るのを躊躇した。1万円札となると考え込む。なにしろ、月収16万円なのである。みだりにお金を使っては暮らしが破綻する……。
だから現役時代に比べれば、暮らしぶりはかなり変わったと思う。ケチになったとまではいうまい。だが、倹約家になったのは確かである。私と倹約。まあ、貧乏人のこせがれに生まれたから、元に戻ったと考えれば済む。いや、子供の頃の暮らしはもっとみじめだったが。
とはいえ、東京に比べれば桐生の物価は安い。最たるものは、味を問わなければ飲み屋である。

「ああ、この程度は金を使っても何とかなるのだな」

という暮らしのリズムをつかむまで、さて、半年ぐらいかかったのではなかったか。

〇腰痛
私が腰痛を発したのは、横浜にいた時だ。小さな花壇が玄関先にほしいと妻女度にいわれ、私はレンガを買って自力で花壇を作った。
レンガを積む。それはレンガとモルタルをひたすら積み重ねる作業である。朝食を済ませると直ちに作業に入り、腰をかがめてレンガを積み、モルタルで繋ぐ。昼食は小休止である。再び腰をかがめてレンガを積む。今日中に作業を終わらねばならない。
終えたのは午後5時ごろだったろうか。今でも横浜の自宅玄関前にある花壇はその成果である。
その翌日、私は腰に異変を感じた。痛い、我慢できないほど痛い。立ち上がるのが不安なほど腰が痛い。
人伝てに、近くに「吸引療法」を施す人がいると聞いて訪れた。背中のあちこちに「吸引器」につながるガラス製のカップをあてる。そしてカップの中の空気を機械で抜く。ために私の皮膚はカップの中で盛り上がり、瘤状になる。それが効くというのである。
この時は、確かに症状は治まった。今にして思えば、吸引療法が効いたのか、それとも自然治癒だったのかは分からない。
ただ、この時以来、腰痛は私の友になった。友が暴れてくれたのはラスベガスに出張した時である。そのありさまはこちら以下をご覧いただきたい。
60歳を過ぎたからだろうか。腰痛は私に常駐するようになった。ある医者に行ったらロキソニンを処方してくれた。確かにロキソニンを呑めば痛みは軽減する。だが、通っても通ってもロキソニンだけである。飲み続けていいのか?
人に

「あそこは上手い」

といわれてマッサージに通ったこともある。施術の直後はなんだか気持ちが良いが、それだけのことでしばらくすればまた元通りだ。
そんな繰り返しの中で、前橋総局で腰が痛み出したことがある。

「大丈夫ですか?」

というデスクに

「ま、いざとなったら車椅子で取材するよ」

と答えたら、イヤな顔をされた。車椅子に乗る身体障害者には働いて欲しくないということか?
いまは、別の整形外科に通い、ノイロトロピンという薬を飲み続けている。

〇警察署のこと
支局長は地元の警察署も担当する。60歳にしての署回りである。警察署に取材で行くなどということは、駆け出しの三重県津支局以来のことである。桐生赴任当時は桐生署、大間々署が私の担当だった。
駆け出しの頃の警察署は、全ての部屋が出入り自由だった。刑事課、交通課、鑑識課など気が向いたところに顔を出し、取材なのか雑談なのか分からない会話をたくさんの人と交わした。
ところが、2度目の警察署担当では、署長、副所長にしか会えなかった。ほかの部屋は出入禁止である。警察署はいつからこんな閉鎖空間になってしまったのか。警察側が出入を差し止めた時、新聞記者は抵抗しなかったのか
いずれにしても、署長、副将としか会えないのなら警察署を回る面白さはない。私は余程のことが無い限り警察署には足を向けなくなった。

〇支局にあった引き継ぎ帳
3年間空き家になっていた桐生支局に赴任して事務所を片付けていたら、引き継ぎ帳が見つかった。めくってみると、5,6人の取材先リストがあった。

「たったこれだけしか取材しなかったのかよ?」

とは思ったが、折角のリストである。全員にあいさつして回った。
回り終えて、

「こんな連中が主な取材先だったのか?」

とガッカリした。いわゆる地方文化人ばかりである。いや、自称文化人、とでもいったらよかろうか。うち1人は刑事立件こそされなかったものの、数百万円の補助金を横領した疑いがある、との話を聞いたのはしばらく後である。以来、この方々に私から接触することはなかった。彼らが持ち込んだネタを記事にしたのは、確か1本だけである。
この引き継ぎ帳を残した前任者のセンスを疑った。

〇大澤紀代美さんのこと
いま桐生で最も有名なのは刺繍作家の大澤紀代美さんだろう。桐生発祥の横振りミシンを使って、芸術品ともいえる刺繍画を描き出す。何度もテレビで特集されたから、ひょっとしたらご存知の方もいらっしゃるかも知れない。
その大澤さんを知ったのは、切り抜きによると2011年4月頃だったようだ。こんな記事を書いている。

刺繍のびす様奉納
兵庫・西宮神社に桐生の分社
伝統技術、名工が振るう

「えべっさん」の愛称で知られる兵庫県西宮市の西宮神社に、分社である桐生市の西宮神社が、えびすを描いた刺繍を奉納する。ほぼ50年に1度行われる本社本殿の修復の祝い。桐生市の刺繍作家で現代の名工、大澤紀代美さん(71)が作る。
西宮神社本社の本殿は1663年、4代将軍徳川家綱が奉納した。その後、ほぼ50年ごとに修復してきたが、1945年、空襲で焼け、やっと61年に復興された。今年はそれから50年を迎えて2月から工事が始まった。
その費用は全国に約3500ある分社などからの奉納でまかなわれる。桐生西宮神社は110年前、地元の商工業者が商売繁盛を願って、本社に分社を認めてもらった経緯があり、金銭は奉納した。
世話人から「桐生らしいものを奉納して本社に飾ってもらいたい」という話が持ち上がり、桐生なら織物、奉納するなら刺繍がいいと話がまとまり、大澤さんに依頼した。
大澤さんは桐生伝統のよこぶり刺繍の第1人者。背景まで刺繍で描き尽くす、他にまねる人のない技術を持つ。依頼を受けると西宮市まで出かけ、本社を全身で感じてきた。「そうしないと、製作にとりかかれないのです」。半年考え続け「風」を表現したいと決めた。
「えびす様は穏やかな神様ですが、穏やかになるにはたくさんの厳しさを乗り越えなければならない。その厳しさを風で表現したい」
昨年12月、一度完成したが「何となく全体が気に入らない」と、2月末から再び製作を始めた。タイを抱いた、えびすの背景で波頭があがっているという図柄になるはずだ。長さ30キロ以上の刺繍糸を使う作品は、縦156㎝、横90㎝の大きさ。5月中には完成させて額に入れる。
6月には世話人総務の岡部信一郎さん(62)が大澤さんとともに西宮に額を持参する。9月には神様が修復を終えた本殿に戻る遷座祭が予定されている。
本社禰宜の吉井良英さん(49)は「地元の工芸品まで奉納してくれるのは桐生だけ。地元の産業もふるわないと聞いている中で、心のこもった奉納は嬉しい」と完成を心待ちにしている。

この記事を書いたが、大澤さんとそれほど親しくなることはなかった。いま思えば、私は大澤さんの作品の偉大さに全く気が付いていなかったのである。

「あ、刺繍する人ね」

程度の認識では、頻繁に取材に出向くことはない。
恥ずかしながら、大澤紀代美さんの本当の価値に目覚めたのは、朝日新聞を去ってからだった。我ながら迂闊なことである。別立てで原稿を書いている「きりゅう自慢」で大澤さんを取材し、その偉大さに触れた。現役時代に目覚めていたら、数十回、いや100回を越える連載ができていたはずである。
この取材に、大澤さんは胸襟を開いてくれ、聞きもしないのに男性体験まで語ってくれた。

「大澤さん、なんでそんなことまで私に話すの? そんな話、原稿に出来るわけないじゃない」

という私に、大澤さんは

「あなたの評判はいろいろな人から聞いてる。敵をいっぱい作ったのね。あなたが嫌いだっていう人もたくさんいたわよ。でもね、話を聞いていると、あなたは言わなきゃいけないことをズバズバいう人らしい。だから嫌われるので、だから私はあなたを信用してもいいと思ったの」

以来、大澤さんとは親友である。酒が飲めない大澤さんと、月に一度ぐらいは酒席を共にしている。

〇年金生活
朝日新聞を去る数日前、桐生年金事務所を訪れた。年金をいただく手続きのためである。いくつかの書類を渡され、必要なことを記入した。私はいったい、どれくらいの厚生年金をいただけるのか。

戻ってきた書類を見ると、いただける厚生年金は年額約250万円である。月額20万円とわずか。たったこれだけの金で夫婦2人暮らせってか? それが、年金については勝ち組だといわれている我々世代の現実か?
私は聞いてみた。

「ねえ、厚生年金を満額もらうためにはどうしたらいいの?」

係員は答えた。

「17歳から63歳まで、月収60万円以上だったら、満額出ます」

言っておくが、63歳はうろ覚えである。ひょっとしたら67歳だったかも知れない。
いや、そんなことはどうでもいい。17歳から月収60万円なんていう職業があるか? 満額を受け取れる年金受給者はどこかにいるのか?
満額がいくらかは聞き忘れたが、年金制度への不信が膨らんだ。

どう考えても、たいしたことがない私の朝日新聞体験を延々と書いてしまった。多くの方々に読んでいただきたいというより、自分で自分の半生を振り返りたかったのだと思う。私は人生の大半をかけて、いったい何をやってきたのか。それは、少しは世の中の役に立ったのか。確かな答はまだ持ち合わせない。
それなのに、結構多くの方々がお読みいただいたようである。何の参考にもならない駄文を読み継いでいただいた方々に感謝をして、この連載を終わることにする。

長々とありがとうございました。