2024
06.15

座頭市シリーズについて

らかす日誌

我が家に膨大に蓄積してしまった映画のディスクを整理するため、毎晩映画を見続けていることは何度か書いた。その作業もやっと最終局面に差し掛かり、いまは「ドキュメンタリー」に挑んでいる。これが済めば、残りは「男はつらいよ」のシリーズ49作と、小津安二郎監督の作品36作である。そこまでこぎつければ、夜映画を見る日非は減るはずである。見たとしても、

「今日はこれを見直そう」

と選ぶことができる。
実は、いまでも黒澤明監督の映画や007を見たいのだが、あるいは最近桐生で高く評価されている(あのO氏の働きかけによる)「小説家に出会ったら」「ウォルター少年と、夏の休日」を鑑賞したいのだが、いま進めている作業が終わらないとその自由はない。

直近に見終わったのは、座頭市シリーズである。あなた、このシリーズは何作あるかご存知ですか? 実は26作もあり、何と、その全てが我が家にハイビジョンで蓄積されているのある。

その前に見たのは、私の整理では「松本清張」だった。松本清張の小説を原作として制作された映画、ドラマを集めたものである。原作がしっかりしていれば、映画もドラマもそれなりに楽しめる。私も、それなりには楽しんだ。
しかし、である。ほとんどが陰々滅々とした殺人事件の話である。それも

「お前は悪だ!」

とスカッと殺すのではなく、金や思惑や人間のしがらみが生み出す殺しである。これをまとめて80本近く見た。流石に半分から後は、

「またかよ!」

とゲップでも出そうな気分で見続けた。
だからだろう、松本清張シリーズ見終わり、いよいよ座頭市シリーズを見ることができた夜は、なんだかホッとした。座頭市の殺しは、勧善懲悪の殺しである。死ぬべき人民の敵が座頭市の刃にかかって断末魔を迎える。これは胸の空く殺しである。

1本目は1862年の作品、「座頭市物語」である。監督は三隅研次、96分の作品だ。筋書きを書くほどの映画ではない。要は、盲目の座頭市が、人間技を越えた居合いで悪者どもをバッサバッサと切りまくる話である。調味料に、気心が通じ合い始めた平手造酒と刃を交えることになり、心ならずも切ってしまうというエピソードがはめ込まれている程度である。
だが、面白かった。松本清張シリーズに比べたら、何と明るい殺人か!

2作目は「続・座頭市物語」。同じ1962年の作品だ。筋書きは同工異曲だが、なんだか面白さが減った。見ると、監督は森一生、とある。そうか、監督が替わったのか。それじゃあ、仕方がないか。
3作目は「新・座頭市物語」。これもあまり楽しめず、続く「座頭市兇状旅」「座頭市喧嘩旅」もたいしたことはない。ここまで1本ごとに監督が替わっている。

「そうか、座頭市の面白さは三隅研次監督でなければ描けないのか」

そう思って、我慢しながら見続けた。次に三隅研次監督がメガホンを取ったのは8作目の「座頭市血笑旅」、1964年の作である。

「これは面白いはずだ」

期待しながら見たが、たいしたことはない。以後、一作ごとに作品の質が落ちていくような感じで、勝新太郎が監督した最終話の「座頭市」など、ただただ斬り合いの場面をつなぎ合わせただけの駄作であった。

しかし、1作ごとにこれほど質を落としながら26作まで続いたとは、さすが座頭市である。

もう1ついちゃもんを付けておこう。ねえ、同じネタをこんなに何回も使っていいのかね?

座頭市は地場のヤクザが仕切る丁半博打の賭場に何度も顔を出す。出すと、

「壺を振らせてくれ」

と頼むのである。
盲が壺を振る? 面白いじゃないか、と毎回許される。許された座頭市は2度ばかり、サイコロを壺の外に出してしまう。
目が見えれば、丁か半かはひと目で分かる。盲の座頭市には分からない。客はこぞって、自分が目で見た方にはる。当然のことで、座頭市は賭に負ける。
そして3回目、またまた2つのサイコロが壺の外に出た。客が目で見える方にはるのはいうまでもない。
変わるのはここからである。いざ、壺を倒してサイコロの目を見よう採る瞬間、座頭市は壺の外に出ている2個のサイコロを

「これは失礼しました。懐から飛び出しまして」

などと言いながら回収し。壺を倒す。すると、客がはったのとは逆の目が出ていて座頭市がひとり勝ちする、という寸法である。

当然、クレームがつく。座頭市に攻め寄るのは、客と一緒に目で見た目にはっていた、賭場を仕切るヤクザである。

「てめえ、いかさましやがったな。懐に入れたサイコロを出せ」

と迫るが、座頭市は落ち着いたものである。

「サイコロ賭博とは、壺の中のサイコロの目に賭けるものだろう。あんたらはいったい、何に賭けなさったのかい?」

とやり返し、あとは居合抜きの技を見せつける。

最初にこの手を使ったのが何作目だったかは記憶にない。その時は

「なるほどね」

と、この詐欺にも似た手口を書いたシナリオに感心した。プロのシナリオライターとはいえ、よくぞこんな手を思いつくものだ。

が、である。この手口がその後の作品に頻出するのだ。おいおい、柳の下にそんなにドジョウっているものか?
大げさにいえば、そこにシナリオライターの怠慢を見た。確かに、最初にこの手を思いついたシナリオライターは大変なものだ。しかし、同じ手をシナリオに入れたライターたちにはプライドはなかったのか? それとも、これを越える手を生み出せなかったのか?
調べたことがないから分からないが、同じシナリオライターが、何度もこの手を使ったということも考えられる。であれば、単なる手抜きである。

確かに、勝新太郎の体術は驚嘆に値する。まあ、本当は目が見えているのだろうが、仕込み杖を操る速度、みごとな殺陣はは余人には真似できないだろう。20作目の「座頭市と用心棒」では三船敏郎と斬り合ったが、体の動きは勝新太郎に軍配をあげざるを得ない。

だが、同工異曲のシナリオ、一作ごとに完成度が下がる成り行き。
確かに、座頭市は歴史に残るヒーローだろう。だが、1作目の「座頭市物語」を見れば十分である、と私は思うのだが、いかがだろう?