2024
06.23

中身が空っぽになっている? 日本の民主主義

らかす日誌

このごろ、世の中が変である。いや、世の中がおかしいのは昔からかも知れないが、そのおかしさぶりが奇妙奇天烈なものになってきた。それが首都東京に集中的に現れたように思う。

4月、衆議院議員補欠選挙の東京15区。「つばさの党」を名乗る連中が候補者を立てた。選挙戦が始まるまでは多くの人が泡沫候補とみなして話題にもならなかった。ところが選挙戦が始まると、この連中、とんでもないことを始めた。街頭宣伝車を乗り回して大音量でがなり立て、ほかの候補の街頭演説を妨害し続けたたのである。

「選挙妨害だ!」

と妨害された陣営は批判した。ところがこの連中、

「表現の自由だ」

と開き直った。
開き直られたメディアは、私の目には少し腰が引けたように見えた。表現の自由。メディアに属する者どもがもっとも大切にしなければならないと考えている自由である。自分たちが何より大事する価値を振りかざされて

「えっ、そりゃあ表現の自由は大事だよな……」

と彼らに対する批判の根拠を見失い、オロオロしたようにも見えた。

「こいつら、とんでもないことをやっていると思うのだが、ひょっとしたらこれも表現の自由なのか?」

と戸惑ったのではないか。不勉強である。
表現の自由は無制限に認められる自由ではない。私が50年以上も前に読んだ憲法の解説書には

「何事もなく映画を上映している満員の映画館内で『火事だ!』と叫ぶ表現の自由はあるか?」

ということが書いてあった。火の気が見えなくても、

「火事だ」

の一言で館内はパニック状態に陥る。悪くすれば出口に多くの人が殺到して死者が出るかもしれない。だから、表現の自由は無制限に認められる自由ではない、と書いてあった。

つまり、「つばさの党」の連中がやったことは表現の自由の範囲内にあるとして許されるものではない。単なる嫌がらせ、選挙運動をひとつの業務とすれば、威力業務妨害である。

いや、私がこの事件に関心を持ったのは、そんなメディアの腰の据わらなさ、彼らが掲げた表現の自由という看板の巧みさではない。「つばさの党」の連中は、どうしてこんな1文の得にもならないこと、恐らく世の指弾を浴びるに違いないことをやったのだろう? ということが引っかかったのだ。

いってみれば、これは典型的な愉快犯である。選挙をパロディにして楽しもう、というのが彼らの狙いではなかったのか。
だって、候補者の街頭演説って、聞いて面白くないでしょ? 聞いて役に立たないでしょ? できるかどうか分からないきれいごと、戯れ言を並び立てて

「だから私に清き一票を!」

と叫び立てるのが選挙運動なんだろ? そんなもの、潰して笑い飛ばした方が世のため、人のためじゃない?
と「つばさの党」の連中が考えたかどうか知らないが、私の目にはそう映った。

要は、民主主義と私たちが考えているものの中身が空っぽになっているのである。私たちの日々の暮らしとは全く別のところで

「私を議員にして下さい。して下さればこれもあれもやります」

とできもしないことを並べ立てるのが選挙運動であるのなら、その街頭演説を粉砕し、民主主義が機能不全に陥った現状を笑い飛ばして何が悪い?
「つばさの党」に理論的支柱がいたのなら、その程度の事は考えたのではなかろうか。

国民が代表者を選び、その代表者を通じて政治に参加する、というのが民主主義といわれているものの基本システムである。だが、だが、代表者と言われる方々と我々国民の間は本当につながっているか? 私たちは代表者を選ぶ手立てを本当に持っているか?
国民が主権者になるのは選挙の間だけ。投票が終われば主権は選ばれた代表者のものになってしまう。そんなことを多くの人が感じているのが現代である。投票所に足を運ぶ人が減り続けるのはそのためである。

私たちが民主主義だと思っているものの中身が、ほとんど空っぽになっている。その典型を私は東京都知事選に私は見る。
都知事選に立って当選する可能性があるのは、テレビをはじめとしたメディアにたびたび登場して知名度を高めた人達だけである。私が都知事になろうと思い立ったところで、顔も名前も知る人がほとんどいないから絶対に当選することはない。仮に私が人格、識見、創造力、交渉力などの知事に求めらる能力をほかの立候補者に倍するほどもっていたとしても、知名度がゼロでは当選はありえない。自明のことである。

だが、知名度だけによって代表者を選び出すのを民主主義と呼んでいいのか?
知名度にも様々ある。かつては自分の専門分野で実績を積み、世に名を知られるようになった人々がいた。高く評価される実績を残したのだから、その人は何者かである。政治的な力量は分からないが、

「この人なら我々の暮らしを任せてもいいのではないか」

と考えることにはそれなりの理がある。しかし、いまの知名度は極論すればテレビにどれだけ顔をさらしたかである。いくつかの自治体が、お笑い芸人を、青春ドラマのかつてのスターを知事に選び出した。いまの東京都だって、もとテレビキャスターを知事にいただいている。
芸能人、テレビキャスターを馬鹿にするのではない。中には有能な人もいるだろう。ウクライナのゼレンスキー大統領はコメディアンだった。
だが、単に

「顔が売れている」

ことが決め手になる知事選とは、民主主義のなれの果ての姿、衆愚主義ではないのか?

小池都知事は、学歴詐称問題で窮地に陥っている。それだけではない。知事としての8年間を見ても、たいした実績はない。あれほど抵抗を示した築地市場の移転問題も、いつの間にか市場は移転された。豊洲にできつつあった新しい市場には土壌汚染をはじめとした様々な問題がある、と指摘したのはかつての小池おばさんである。あれはどうなったのか?
他に抜きん出た金持自治体である東京都の、金のばらまき具合は目に余る。何でも、都民の子供は高校まで、都立、私立を問わず授業料はいらないのだそうだ。おいおい、ちょっと待て。東京には開成、麻布をはじめ、名だたる私立名門進学校がある。千葉県、埼玉県、神奈川県から通う子供も多かろう。だが、都内から通ってくる子供は授業料を負担しなくても済む。東京の外から通ってくる子どもたちは授業料を満額払い、通学定期も負担する。それって、なんだかおかしくないか? そんな、エリート予備軍がエリートになるための学費を、都民に限ってなぜ税金で負担しなければならないのだろう?
いやそれも、都庁が、都庁の役人が、あるいは都知事が、額と脳に汗をかいて稼ぎだした金を使うのならまだ許せる。しかし、東京都にそんなあぶく銭があるのは大企業の本社がひしめき合うためである。たまたま首都であり、経済の中心地であるためのあぶく銭である。ほかの自治体が真似ようにも、真似ることは不可能だ。これは究極の不平等である。
小池都政とは、恵まれすぎた立地を生かして己の再選しか考えない究極のばらまき政策実行したとしかの目には映らない。
そして今回も子育て支援を公約に掲げた。おいおい、東京都の出生率は1.00を切ったのだぞ! あなたの8年間の政策に効果がなかったとは考えないのか?

では対抗馬の蓮舫はどうか。
私、この人、嫌いである。目から鼻に抜ける頭の良さは認める。だが彼女、良い頭の使い方を間違ってはいないか?
蓮舫といえば、思い出すのは誰しも事業仕分けである。

「どうして世界1にならなければならないのですか。2番手では何故いけないのですか?」

と言いつのる彼女の姿をテレビで見て記憶されている方は多いと思う。私はあれを見た瞬間、

「ああ、この人は何もわかってはいない」

と私は唖然とした。常にこれまでなかったもの、これまで最高の性能を持つものを超えるもの、を生み出そうとするのが技術者である。

「この程度でいいよ」

という仕事をする人はエセ技術者である。エセ技術者しか抱えていない企業が発展することはない。
中でもスーパーコンピューターの世界では、世界一にならねばならないのだ。最も高速なコンピューター、つまり世界1のコンピューターと、それより能力が劣る世界2位のコンピューターがある。スパコンの導入を考える政府、企業が、2番手の性能しかないコンピューターを買うか? 世界最速だから、買い手がつくのではないか?

テレビを見ていたら

「蓮舫さんも出るの? あの人、1番にならなくても、2番でいい人でしょ?」

というおばちゃんがいた。その通りである。見る人は見ている。あの人、選挙でも1番は目指さないんでしょ? 選挙では1番以外は落選である。

彼女の公約も、ネット上では

「中学校の生徒会長選挙みたいな公約で具体性がない」

などの批判が飛び交っているようである。
例えば、

「現役世代の手取りを増やす本物の少子化対策」

をどう実現するのかと問われて、

「都と取引している業者に、従業員の賃金を引き上げるよう指導する」

と彼女は答えていた。しかし、考えてくれ。あんたは事業仕分けで、行政はできるだけ安く物品を調達しなければならない、と主張していたのではなかったか。同じものなら安い価格を提示したところから買う。入札制度はそのためにある。そして、できるだけ安い価格を提示するため、業者は従業員の賃金を抑えるのではないか? この人、頭はいいのに、自分の主張が矛盾していることに気が付かないのか?
それに、万が一その政策が上手くいったとしても、東京都内の企業は都と取引実績のあるところばかりではない。むしろ、そんな実績がない企業の方が大多数ではないのか。そこに勤める人達の賃金はどうなる?

私の悪いクセで、またまた原稿が長くなった。申し訳ないが、もう少しお付き合いいただきたい。

私が都知事選で書きたかったのは、有力候補の話ではない。24人もの候補者が立った「NHKから国民を守る党のことである。
前々から、とんでもない連中が現れたものだと思っていた。今回の「24人立候補」には、この人たちを表現するのに「とんでもない」では言葉が弱すぎる気がし始めた。
そもそも、都知事は1人である。「NHKから国民を守る党」が政党であるのなら、党としての候補者は1人であるべきだろう。そうでなければ政党として無責任である。
という批判など、彼らには蛙の面にしょんべん、の類であることは承知している。
それ以上にゾッとしたのは、立候補者のポスターを貼るために用意される掲示板のポスター掲載権(というのだろうか?)を売っちゃったことである。あの掲示板に個人、あるいは企業や団体のポスターを貼れば多くの顰蹙を買うと思うのだが、それが売れてしまったというから、いまの世の中どうなっているのか。

これも、「選挙」という民主主義のシステムが、中身が空っぽになってしまったことの表れなのだろう。選挙という一大イベントを乗っ取ろうとでもいう愉快犯の頻出。その根底に、政治システムとしての民主主義の老朽化があると私は思う。あなたはどうお考えだろうか?