2024
07.10

声帯から組織を採ってきた

らかす日誌

あれからほぼ1ヵ月。本日足利日赤に行き、声帯にくっついて悪戯をしている白い組織を採ってきた。医者の指示で今日からおよそ1週間、私は無言の行に入る。声を出すと,当然のことながら声帯が振動し、傷が広がるのだそうだ。

診察は淡々と進んだ。吸引薬を使っておよそ2ヵ月、内服薬も加わっておよそ1ヵ月。

「どうですか?」

と聞かれた私は

「良くなっています、といいたいところだけど、あまり変わりないかなあ……」

と答えて、

「では、ファイバースコープで見てみましょう」

という医者の言葉を引き出し、鼻の右の穴からそのファイバースコープを突っ込まれる次第となった。

「はあ、少しは小さくなっているような気もしますが、あまり変わってないというところですね」

やっぱりそうか。

「で、どうします?」

とは私の言葉である。次いで私はこう言った。

「まあ、こうなったら声帯の組織を採って調べてもらうしかないですよね」

「そうですね」

「今からですか? 診察の順番を待っている患者さんもいるようですから、日を改めてもいいんですが」

「いや、今日でもかまいませんよ」

「時間がかかって、待っている患者さんの迷惑になることはありませんか?」

「大丈夫です」

という次第で、いよいよ声帯の組織を採ることになった。
組織採取に先立つのは、患部の麻酔である。まず、麻酔薬の吸引を命じられた。薬剤の入ったプラスチックの器具を手渡され、

「これを吸引して下さい」

そばに時間を計る機械があり、並んだ緑のランプがすべて消えるまで何度も深く息を吸う。すべて消えると、

「もう一度やって下さい」

再び器具を加えて深呼吸である。こうして2回繰り返したので10分ぐらいかかったか。

次は喉の奥に麻酔をかけるという。ドロリとした液体を口から入れられ、

「これを喉の一番奥にためて置いて下さい。10分間です」

10分も? その間、唾が貯まって呑み込みたくなったらどうする?

「それだと麻酔が効きませんから、我慢して下さい」

我慢できなくなったら?

「その時は呼んでください」

ドロリとした液体を喉の一番奥に流す。上を向いて10分間。5分のところでチャイムが鳴った。

「あと5分です。がんばってください」

がんばった。

「はい、では液体をこれでとってください」

と大量のティッシュペーパーを渡された。なんだか私の喉の周りが他人の喉のような気がしてきた。

ここまでは看護師さんの指示に従っての作業である。医者の施術が始まるのはここからである。

「はい、これからが一番辛いところです。口から器具を入れて声帯の周りに麻酔薬を塗りつけます。鼻からはひとまわり大きなファイバースコープを入れます。それで、はい、鼻の穴にも麻酔をしましょう。はい、終わりました。これから声帯周辺の麻酔をします。オエッとなるでしょうが、我慢してください」

我慢? オエッとなって吐きそうになったら?

「なことはないと思いますが、その時はいって下さい」

えっ、出されたファイバースコープは、直径1㎝とまでは言わないが、十分に5,6㎜はありそうだ。これを鼻の穴から入れる?! この、鼻からぶっといファイバースコープを突っ込まれた状態で口をきけってか!

金属製の棒が出て来た。先っぽにガーゼが取り付けてあるようだ。あのガーゼに麻酔薬を含ませているのだろう。

「じゃあ、行きますよ」

2本の金属棒が喉から突っ込まれた。

オエッ、オエッ、オエッ、オエッ

「はい、大丈夫ですよ。だれでもオエッとなりますから。

声帯の周りの様子は、近くにあるモニターに映し出されて見ることができる。ああ、あの金属棒の先が、私の声帯、その周りに麻酔薬を塗りつけている!

金属棒が取り出された。終わった! と喜んだのもつかの間、

「はい、もう一度麻酔薬を塗りつけます」

オエッ、オエッ、オエッ、オエッ

終わると、いよいよ組織採取である。右の鼻の穴から突っ込まれているぶっといファーバースコープには、先が開閉してものをつまむことができるようになった針金を通す穴があるらしい。その針金を医者の手元付近の穴から差し込むと……、

おお、モニターに映し出された我が声帯のそばに、あのつまみが登場したではないか! 全体を操作するのは医者である。だが、医者の指示に従ってあのつまみを「開」から「閉」にするのは看護師さんの役割である。この看護師さん、さっき

「新しく来た看護師で、仕事をしながらいろいろ教えているんです」

といわれた人だよな。いわば実地研修中の看護師さんである。大丈夫か?

鼻から入れたファイバースコープを操作する医師がモニターを見ながらファイバースコープを動かす。

「はい、閉じて」

看護師さんの操作で、つまみが閉じた。組織をつまんだらしい。針金が引き抜かれる。モニターを見ると、声帯の表面に薄らと血が滲んでいる。ああ、この傷が治るまで、私は声を出してはいけないのか。

組織採取はもう一度繰り返された。ということは私の声帯は2カ所に傷をおったわけである。

「はい、いま採った組織を顕微鏡で調べて病名を特定します。その分析に2週間ほどかかりますから、次回は24日でいかがですか?」

iPhoneを操作して24日の予定を見た。あれまあ、この日は泌尿器科で最後のホルモン注射を受ける日ではないか。

「その日は詰まっています」

と伝えねばならないが、すでに私は声を出してはならない存在である。口で伝えるわけにはいかない。
医者の机にあったメモ帳とボールペンを借り、

「その日は、前立腺がんの治療でホルモン注射を受ける日です」

と書いた。

「あ、そうですか。では、その前後ということで」

というわけで、23日御前1時に決まった。

あれから私は一言も口をきいていない。処方薬を受け取りに薬局に行った時も無言の行である。ありがとう、は笑顔で伝わる。その足で、今日発売の文藝春秋を買うために書店に立ち寄った。ここでも一言も発しなかった。ふむ、言葉を使わなくても、そこそこの社会生活はできるようだ。

自宅に戻った。妻女殿に声帯の組織を採ったことを伝えねばならない。私は口の前で両手を超ささせた。声は出せないことを伝えるジェスチャーゲームである。
続いて、数人にショートメールを出した。

「必要あって、声帯の細胞を採ってきました。1週間ほど声が出せません。何かあればメールでお願いします」

私は今日から1週間の無言生活である。