08.07
桐生の夏祭りも終わった。残り少ない体力を思い知らされた。
肩肘張らず、全身脱力状態で書いているような「らかす」だが、それでもある種の精神力、気力、活力、やる気が体にないと書けないものらしい。桐生祇園祭が済んだのが3日。その始末記を書こうと思っていたのに、今日までキーボードを叩くことがなかった。叩こうかな、と思ったことはある。が、結果的には終日グズグズし、日と時を無駄に費やした。祭りでたいしたことをしたわけでもないのに、我が心身はそれなりに疲れていたらしい。
75歳とはそんな年齢であるのだろう。
私に託されたのは、天王番である本町3丁目の写真撮影である。
初日は、各町内の若い衆が他町の陣屋にあいさつに回る。だから、本町3丁目の陣屋は次々と他町の若い衆のあいさつを受けることになる。この撮影が最初の仕事だった。まず、あいさつ回りに出かける3丁目の若い衆の粋な姿をカメラに収め、他町からのあいさつを受ける3丁目幹部の姿にシャッターを切る。向かい合ってのあいさつだから、撮り方が難しい。立ったままでは何ともならず、椅子を持ち出してカメラ目線をあげ、上から俯瞰する形であいさつを受ける3丁目幹部を狙う。できればあいさつをする各町内の若い衆の姿も収めたいのだが、私のカメラの24〜85㎜のズームレンズでは、先頭であいさつする若い衆代表の頭ひとつを入れるのがせいぜいである。どう撮っても締まりのない写真にしかならない。私、写真の腕には全く自信がない。
あれは何組目のあいさつだったか。カメラに異変が起きた。シャッターが降りないのである。
「故障?」
何度もシャッターを押してみるが、頑として動こうとしない。ディスプレーを見て、
「あ、こりゃあいかん!」
とあわてた。バッテリーのマークが点滅している。ドライアップしているのだ。おかしいな。撮影を始める前に充電済みのものと交換したはずだが……。え、充電するのを忘れていた?
あわてて、さっき取り換えたばかりの、ほぼ残量がないバッテリーと入れ換えた。これだとバッテリーマークは点滅しない。シャッターも動く。ホッとしたが、さて、このバッテリーも残りの容量はほんのわずかである。これで1日持つか? バッテリーが切れたらどうする? とは思うが、打つ手がない。充電器は当然のことながら、自宅にあるからである。バッテリーが切れるまでこれで撮るしかない。あとは? iPhoneで撮る?
あいさつの撮影が終わり、3丁目が誇る「翁鉾」を収蔵庫から道路に出す作業を写し、その鉾を背景に記念撮影をする。まだバッテリーは生きている。
「大道さん」
と声をかけたのは、私にカメラマンを委嘱した前町会長さんである。
「今年は屋台を組み立ててんだけど、その屋台には屋根裏部屋があって、そこでお囃子の人達に演奏してもらうんだわ。それを撮って欲しいんだけど」
聞けば、演奏が始まるのは午後7時とのこと。いや、午後7時の光で、屋根裏部屋を撮るのは難しいと思いますが。でも、やるだけやってみましょう。
組み立てられた屋台には舞台があり、その上方に1m四方ほどの窓がある。そこが屋根裏部屋らしい。お囃子のメンバーはまず脚立で舞台に登り、そこから梯子を使って屋根裏部屋に入り、あわせて楽器を運び上げていた。
この屋台は嘗て表通りに設置され、舞台で様々な演芸を催して人を惹きつけていた。屋根裏部屋での演奏は舞台での演芸を支えるBGMだったのだろう。オペラ上演時のオーケストラピットのようなものである。
だが、今日は舞台で演じられるものはない。ただ、屋根裏部屋からお囃子が聞こえてくるだけである。なんというか、寂しい……。
いっぱいにズームしてシャッターを切ってみた。おお、写ってるわ。屋根裏部屋で横笛を吹く女性の姿がくっきりと浮かびだしている。これなら撮れるだろう。
ということで10数枚の写真を撮ったら、ふたたびシャッターが降りなくなった。バッテリーが空になったらしい。よっとて初日の撮影はここで終わり。心配したが、託された仕事は何とかやりおおせたようである。自宅に戻ると、2本のバッテリーに充電したのはいうまでもない。
翌3日は、前3丁目町会長の奥様に迎えに来ていただいた。この日は酒が出る。自分の車で移動するわけには行かないのだ。
この日は阿波の鳴門から 阿波踊りの一行30人ほどがやって来た。桐生の夏祭りに彩りを添えるためである。
午後6時に始まると聞いていいたが、なかなか始まらない。どうしたのかなと思っていると、サイレンを鳴らしながら救急車がやって来た。救急車? 何でも阿波踊り一行の1人が、熱中症で倒れたらしい。
だからいわぬことではない。この熱気の中で祭りをやるなんて危険だって! 開催時期をもう少し涼しい季節に移さねば、そのうち死人が出るのではないか?
幸い、この日はそこまでの事態には至らなかったと聞いたが。
救急車騒ぎを見て、
「桐生は鳴門より暑いのかい?」
といったのは誰だったか。
「あっちは海風があって桐生よりましなんだよ」
と答えたのは誰だったか。ホントかな?
初めて見た阿波踊りだが、なかなかのものである。踊り手は20人ほどと規模は小さかったものの、あの迫力はただものではない。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん、の軽妙なリズムに乗って展開する阿波踊りの身振り手振りはそれほど難しいものではない。だが、みごとに全体が統率され、迫力がある。
やがて、観衆を踊りの輪に引き入れ始めた。3丁目の長老が加わり、若い女の子が輪に入り、子どもたちも親に促されて踊り始めた。見る阿呆から踊る阿呆に変身する人々が相次いだ。
私? 私はカメラマンに徹し、見る阿呆にも踊る阿呆にもならなかったのはいうまでもない。仕事、仕事、である。
もっとも、足だけは阿波踊りのリズムを刻んでいたかも知れないが。
あとは夕闇が迫ってきた中で、「翁鉾」を背景に3丁目役員と若い衆の記念撮影。たっぷりと日が暮れた後は、隣の4丁目が持つ「四丁目鉾」との鉾の曳き違い。ま、2台の鉾が大勢に曳かれてすれ違うだけなのだが、これで祭りの熱気は最高潮に達するのである。
終えて宴会。さて、私はビールを何缶開けたのだったか。
心地よい宵を楽しみながら、再び前町会長の奥さんが運転する車で帰宅したのであった。
こうして桐生の夏がまた1ページを加えた。
息子の嫁からは
「お父さんは、あの状態(注:新型コロナに感染したこと)からから夏祭りでカメラマンができただなんて、回復力がすごいですね!」
とのショートメールを受け取った。