2024
08.19

黒澤明監督が戦争協力の映画を撮っていた!

らかす日誌

渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズ、前48巻+1を昨夜見終わった。これで、我が家に蓄積した映画はすべて、1度は見たことになる。今日からは、自由に映画を選んで鑑賞できる。その自由を、まず黒澤明監督の作品から始めたた。

男はつらいよ」。寅さんが惚れて振られる。同工異曲の物語を手を変え品を変え、よくぞ48本も撮ったものだ。しかも、全作がそこそこ面白い。いや、全くの労作である。よくもまあ、これだけの恋の模様、失恋の模様を作り出したものである。
さすがに42作目の「男はつらいよ ぼくの伯父さん」からしばらくは寅さんの惚れた、振られたはネタ枯れしたらしい。桜の息子・満夫の初恋がテーマとなる。薄幸の美少女・泉に満夫がぞっこん惚れ込み、失恋体験豊富な寅さんの恋愛指導を受けるという趣向である。満夫の高校3年から始まり、浪人を経て大学生、社会人になるまで、満夫は時折他の女性に惹かれるが、心から好きなのは泉、という話で、そりゃあまあ、泉を演じるのが国民的美処女の名をほしいままにした後藤久美子だから、満夫の気持ちも分からないではない。

という具合に楽しんだが、さて、寅さんはなぜこれほどまでに国民に愛されたのだろう?
冷たくいえば、バカな中年男である。美人とみれば直ちに一目惚れし、デレデレを繰り返す。だが、その恋を成就するノウハウが寅さんにはない。その美人の気持ちが自分に向いていると感づくと、途端にコソコソと逃げ出す。しかも、ご大層な理屈付きである。おいおい、お前はいったい何をしたいんだよ? と見ているこちらは苛立つ。それが独特の可愛さとなって多くの支持を得たのか?

人物造形にも違和感がある。寅さんは勉強が嫌いで、字や文章も満足には書けない。放浪先から送ってくる手紙の文面は、毎回ほとんど変わらない短文である。まあ、それしか書けない貧しい知性の持ち主なのだ・ところが、弁だけはたつ。理路整然と己の考えを述べまくる。周りの人々がタジタジとなるほどだ。
口から発する言葉とは、先ずは頭で考えるものだろう。手紙の文章も拙い寅さんに、なぜこんな論理が組み立てうるのか? 時に論理はハチャメチャで勢いだけになるが、そのハチャメチャぶりも寅さんに惹きつけられる人が多い要因なのだろう。
何しろ、世間の常識と非常識を混ぜ合わせ、その場で自分に都合のいい論理を組み立てるのが、寅さん流である、と私には思える。そして、その中に、みんなが心の内では思っていてもなかなか口にできないことが多々あるのではないか。

いずれにしても、

「こんな男はみたことない」

山田洋次監督の原作だとあった。山田監督といえば東大法学部の出である。つまり、日本を代表するインテリの1人である。その大インテリがなにゆえに寅さんを生み出したのだろう? 東大にウヨウヨいる大インテリたちの生態にほとほと呆れかえり、

「頭だけ良くたって、人間としてはいかがなものかね」

と見切って、インテリの対極にある人物を創造したのか?
ま、ぞれでも寅さんが時折、東大でのインテリでも打ち負かしそうな論理を展開するあたりは、山田監督のインテリジェンスが顔を覗かせたのかも知れない。

今日見た黒澤作品は、「姿三四郎」「一番美しく」の2本である。黒澤監督の1作目、2作目である。
後の充実した作品群に比べれば、脚本もカメラも物足りない。「姿三四郎」では柔術か柔道家分からないが、相手を遠くに投げ飛ばす。そして対戦相手を殺してしまうシーンもある。
おいおい、どれだけ腕力があったら、大の大人を数m先まで投げ飛ばすことができるんだ? とは、柔道2段の私の思いである。黒澤監督はセットの細部にまでリアルを求めた監督ではなかったのか?

それ以上に驚いたのは「一番美しく」である。これ、全くの国家総動員態勢賛美の映画にしか見えないからだ。日本が太平洋戦争真っただ中の1943年から44年にかけて制作されたというが、黒澤監督はなにゆえに、これほどまで軍国日本のプロパガンダとしか思えない映画を撮ってしまったのか?

兵器用の光学機器をつくる工場に招集された女子挺身隊の話である。前線で命を的に戦う兵隊さんのため、懸命に兵器の部品を女の子たちは作る。ある日、国から増産命令が出た。工場は、男子従業員には10割増し、つまりそれまでの2倍の製品を作ることを命じる。女子挺身隊には5割増しを求める。女子挺身隊は不満である。
何が不満なのか?

「いまだって精一杯作っているのに、そんなに出来るわけないじゃないの!」

という不満ではない。

「男性が10割増しで、なんで私たちは5割増しなんですか。そりゃあ、男の人にはかなわないかも知れないけど、男の人達の半分というのは侮辱です」

という不満なのである。

いやこれ、男女同一労働、同一賃金が求められる現代を先取りした問題提起かも知れない。結局は男性の3分の2、つまり66.7%増の生産を女子挺身隊に求めることで決着するのだが、それはよい。
問題は、対象が兵器の生産であることだ。それを、男性が2倍なら、女子である私たちは1.67倍にしたい、というのである。それが正しいこととして描かれるのだ。

これって、単純にいえば、戦争協力の映画である。

私は長い間、太平洋戦争中に映画を撮り始めた黒澤監督は、それでも戦争協力の映画は撮らなかったと思い続けてきた。それなのに「一番美しく」である。人が一番美しく輝くのは滅私奉公をしている時である、といわんばかりの映画である。

私は、黒澤明という監督の見方を、少し修正しなければならないのではないかと思い始めた今夜である。