2024
09.07

黒澤明監督の「影武者」を、今晩観た。

らかす日誌

いま黒澤明監督の映画を、1本目の「姿三四郎」から年代順に観ている。今日は「影武者」だった。1980年の作品である。

一言でいう。つまらない。シナリオに起伏がなく、観客、つまり私を映画の世界に引きずり込んでくれない。ただただ、次々に現れるエピソードを傍観者としてみているだけである。

元亀3年(1572年)、武田信玄は軍勢を引き連れて京の都に向かった。将軍・足利義昭の織田信長討伐令に応じての進発である。同時に、天下を我が物にする絶好の機会だ。
遮るものをなぎ倒して今日への道を辿ったが、元亀4年(1573年)になって病を得、やむなく4月には甲府への撤退を始めた。その途中、4月12日に信玄は三河街道で死ぬ。
死ぬ間際に、信玄は遺言を残したと伝わる。

「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」

映画『影武者」は、この歴史を下敷きにする。
信玄の死を3年間は秘す。そのの手立てとして重臣たちが思いついたのが影武者の利用である。信玄そっくりの元盗人が信玄の影武者になって周囲を騙し続けるのである。

信玄の死を見取った医者は殺した。信玄の死が世に知られてはならない。信玄の死を知る人間は1人でも少ない方がいい。
ここから始まる物語は、驚天動地の展開を見せると私は期待した。だが、完全に裏切られた。次々と現れるエピソードは、影武者であることを隠し通すにはどうするか、という一事に尽きる。

最初に見破ったのは、信玄の孫だった。戦地から帰った信玄にお目見えした孫は、

「これはおじいさま(だったか、じいじ、だったか、ほかの言葉だったか、思い出せない。申し訳ない)ではない」

と言い放つのである。
あわてた重臣たちは

「御館様は病み上がりであらせられるのです」

とこの孫を言いくるめてしまう。それを信じたのか、孫は影武者になつき、影武者も孫を心から可愛がる。

——つまらない。その程度でごまかせるのなら、ドラマじゃないだろ?

次の問題は側室である。寝所を共にするのだから、見破られる公算は大である。いや、必ず見破られるだろう。いったいどうやって影武者であることを隠し通すのか、と思って見ていると

「御館様は病み上がりである。医者からしばらくは女人を遠ざけるようにと厳命されている」

これで、夜の布団の中で正体がばれる危険もなくなった。

この辺りで、私はこの映画を見切った。この程度のエピソードの積み重ねなら、シナリオは「影武者徳川家康」(隆慶一郎著)にはるかに及ばない。

徳川家康の影武者を世良田二郎三郎という。常に家康に付き従って家康を写し取ることに力を注いでいたが、その家康が関ヶ原の戦いで殺されてしまう。家康は東軍の総大将である。その家康が死ねば東軍の戦意は萎えてしまう。そこで側近は、近くにいた世良田二郎三郎に向かって

「いまから家康公になれ」

と命じる。命じられた世良田二郎三郎は、やはり「影武者」の影武者と同じ苦労を強いられる。

家康には複数の側室がいた。寝所を共にしなければならない相手である。医者の診断は使えない。世良田二郎三郎は考えた。近くに侍って家康公のクセはほとんど身につけた。いまでは、私を家康公の影武者と見分けることができる人はまずいないはずである。だが、家康公の寝所でのクセ? そんなもの、知るわけがない。添い寝をすれば、私が影武者であることは即座に分かってしまう。どうする?

世良田二郎三郎は正直に事実を伝えることにする。それしか方法はなかった。だが、事実を伝えることにはリスクをともなう。伝えた側室が秘密を守ってくれるとは限らないからだ。
だから世良田二郎三郎は説得する。今この事実が世に知れたら、何が起きるか? 徳川家の安泰が続くか?! 懸命の説得である。そこに物語のリアリティが生まれると思うのだが、同じ問題に直面した黒澤監督は、医者の診断で逃げた。ドラマ性がつや消しである。

ことほどさように、「影武者」には背骨が通っていない。武田信玄の死で表舞台に立たされた影武者に関する、薄っぺらいエピソードが積み重ねられるだけであ。

黒澤監督はこの映画で、何を観客に伝えたかったのか。どの登場人物にも感情移入できず、傍観者として3時間の映画を見続けた私はには、受け取るべき何者もなかったという思いしかないのである。