11.21
えびす講が終わった
桐生えびす講が昨日終わった。体力の限界を感じさせながら、一方では私にまだたくましい回復力が残っていることも知らせてくれたえびす講だった。
体力の限界。それは下半身に現れた。えびす講で私は公式カメラマンである。じっと座って被写体が現れるのを待つカメラマンではなく、61段の石段を何度も上り下りし、露店の間を歩き回って被写体を探すカメラマンである。1眼レフの重いカメラを首から提げて下る、登る、歩く。今年はほかに2人カメラマンがいたので1日目の歩数は1万歩程度だったが、その1万歩がこたえた。夕刻以降は床に座ると立ち上がるのがなかなか難儀なのだ。体力を消耗した。
1日目の19日、自宅に戻ったのは9時半頃だった。折りから、この季節最大の寒波が襲った日である。身体が冷え切っていた。もう風呂に入る時間ではない。日本酒を2合温め、流し込んだ。内側から暖を取ろうという作戦である。
布団に入ったのは11時半呉だろう。たちまち眠り込んだ。翌朝目を覚ますと8時半。妻女殿に言わせるといびきをかいて眠っていたという。余程疲れていたのである。
2日目の20日、10時半頃桐生西宮神社に着いた。時折小雨が降るあいにくの悪天候である。参拝客も少ない。被写体がないからあまり動かなかったが、それでも歩数は6000歩。このほとんどが石段の上り下りである。下半身はますます疲れた。足の付け根が痛み始めた。座って立ち上がるのが前日より辛い。慎重に手で支えながら腰を上げ、バランスを取りながらヨッコラショと立つ。
えびす講の世話人はほとんどが後期高齢者の私と同世代である。見ていると、立つのに難渋しているのは私だけではない。ほぼ全員が立ち上がるのに苦労し、時折よろけたりする。私の足腰も、立派にこの方々の仲間なのである。あと半年もすれば76歳。己の身体の不具合ぶりを確かめながら日常生活の挙措動作を組み立てるしかない。
回復力。それは不幸な事故から始まった。
19日朝、急に下がった気温に対応するため、2階においてある綿入りのジャンパーを取りにいった。そのジャンパーを持ち、階段を下りていた私は、どうしたことか最後の1段を踏み外し、転倒してしまった。この時、どうやら左の足首をひねったらしい。
えびす講では歩かねばならない。足首を回してみた。特段の傷みはなかった。
「これなら大丈夫だろう」
そう判断した私は9時前に家を出て桐生西宮神社に向かった。
先に書いたように、この日は1万歩歩いている。その1万歩のほとんどは主に午前中、午後は3時ぐらいまでに稼いだものである。昼過ぎから左足首が違和感を訴えだしたのだ。午後3時ごろになると、違和感は明瞭な痛みに変わった。ビッコを引かねば歩けなくなったのである。床から立ち上がるには、右足の力で全身を持ち上げるしかない。あぐらを組むと足首が痛む。左足は投げ出しておくしかない。
痛みは時を追って増すようであった。これはいかん。えびす講は明日20日までだ。明日、私はここに来ることが出来るか?
「申し訳ないが、そういう事情で明日は来ることが出来ないかも知れない」
そういって帰宅し、痛む足首にロキソニンテープを貼って寝た。これで何とかなってくれればめっけもの、程度の期待しか持たずに寝た。
20日、前記の通り、8時半頃目覚めた。布団から出る。立ち上がる。
「あれっ、立てるじゃん! 左足も使えるじゃん!!」
かすかに傷みは残っていたが、これなら歩ける。ビッコもひかない。75歳にしては目覚ましい回復力ではないか! こうして私は、2日目のえびす講に出かけたのであった。
桐生えびす講。先に私の名前で出版された「桐生を紡ぐ」の一部を引用すると
「桐生の近代化を担うはずだった日本織物会社の経営不振、桐生経済を牽引していた佐羽商店の廃業、そして追いかけるように起きた三丁目の大火。一つの町をこれだけ次々に不幸が襲えば、普通は町を挙げてシュンとなる。しばらくは町から賑わいが消えてしまう。ところが、桐生は常識が通用しない町なのかも知れない。町衆と呼ばれる桐生の旦那衆は、クヨクヨ、メソメソするどころか、逆に拳を振り上げて立ち上がったのだ。『災いを転じて福としよう。福の神=えびす様を祀る西宮神社を桐生に招聘しようではないか』。いつ、誰が言い出したのかははっきりしない。だが、三年後の明治三十四年(一九〇一年)十一月十五日には桐生の代表二人が西宮市の西宮神社本社にお願いに上がり、分霊を認められた。その五日後の二十日、桐生西宮神社が誕生した。桐生えびす講は桐生西宮神社の神事として、その年から始まった」
というお祭りである。
今年からは兵庫県西宮市の西宮神社本社で毎年1月10日早朝開かれる「福男選び神事」を桐生でも始めた。20日午前6時を期して男女各54人が230mを疾走し、「福男」の座を競った。TBSが実況中継した。ひょっとしたらご覧になった方もいらっしゃるかも知れない。
この「桐生福男選び神事」を企画、実行したのは30代から40代はじめの若者たちである。彼らは桐生西宮神社が「関東一社」(西宮人がに認定した関東で唯一の西宮神社)であることを活かし、関東一円からの「福男選び神事」参加を目指している。長く、桐生ローカルの祭りであった桐生えびす講を、少なくとも関東の祭りにしようという取り組みだと、私は評価する。
床から立ち上がるのに一苦労する年代から、230mを駆け抜ける世代へ。歴史の針は確実に時を刻んでいるようである。