03.10
児玉とオースティン・ミニの話
児玉がオースティン・ミニを買ったことがある。その頃のことだ。
児玉がたびたび我が家に押しかけ、酒をたらふく飲み、寝て行ったことは前回書いた。
その日、児玉は昼前に我が家に来て昼食を作ってくれることになっていた。もちろん、そのまま居続け翌朝帰る心算である。
「大道さん、今から出るけん」
と電話があったのは午前九時を少し回った頃だったと記憶する。当時、児玉は横浜の我が家から車で1時間もかからないところに住んでいた。そうか、だったら遅くとも10時半までには来るだろう。そう判断して私は待った。
来ない。10時を回っても来ない。10時十五分になっても姿を現さない。時計が十時半を回るとさすがに心配になった。
「あいつ、事故でも起こしたか?」
まだ携帯電話が普及する前のことだ。私も児玉もスマホはおろか携帯電話も持ってはいなかった。心配はするが、できることはない。ヤキモキしていると、それから10分ほど経った頃、児玉から電話が来た。
「なんだお前、事故でもやったのか?」
心配のあまり、言葉は少し荒くなっていたと思う。
「いや、事故はしとらんばってん、大道さん、迎えに来てくれんかね?」
?? 迎えに来い? 車で我が家に向かっていたのではないのか?
「それがやねえ、車のエンコしたったい。走らんごとなって、いま高速ば降りてJAFば呼んどっと。そのまま修理工場に入れんとでけんごたる。来てくれんね」
それはそれは。しかしお前、確かミニクーパーを買ったばかりだよな。それが故障した? 大英帝国の誇りはどこに行った?
迎えに行った。走らなくなったミニクーパーの運転席で、児玉は私を待っていた。
「まだJAFは来ないのか?」
「ああ、もうすぐ来るとおもばってん」
「そうか、だったらタバコでも吸って待ってるか」
私はそういって、児玉の愛車、買いたてのミニクーパーの助手席に座った。タバコを咥えた。ライターを取り出した。
「ん、おい、ちょっと待て。児玉、なんか臭くはなかか? ガソリンの匂いのごたる。タバコに火をつけるのはちょっと待て!」
「言わるっと、そげん気もするね」
児玉が車を出た。私は運転席に移動した。
「大道さん、ちょっとアクセルば踏んでみてくれんね」
車の下を覗き込んでいた児玉が言った。私がアクセルを踏むと、児玉が奇声をあげた。
「わー、こらでけん! ガソリンのボタボタ漏りよっと!」
私の鼻は正しかった。ガソリン漏れ。あのまま車内でタバコに火をつけていたら‥‥。2人は火だるまだったかもしれない。私は児玉と私の命の恩人である。
やがてJAFが到着。動かなくなったミニクーパーを牽引して行った。私たち2人はそれを見届け、私の車(多分、ホンダ・アコードだった)で我が家に向かった、
この話には後日譚がある。私が児玉に電話をして、彼の愛車の故障の詳細を聞いたのである。
「それがねえ」
心なしか、声に元気がなかった。
「燃料パイプの内側が錆びて、その錆でパイプが詰まってエンジンにガソリンの行かんごとなっとった、ちいわれた」
新車の燃料パイプの内側が錆びる? その錆が剥がれ落ちてパイプが目詰まりする? 大英帝国の威信はどこに行った?
その、問題のミニクーパーを一度だけ運転したことがある。まず、内装が酷かった。後付けでカーステレオなどを取り付けたようだが、カーステレオとパネルの間に大きな隙間があるのだ。普通は隙間などなく、パネルとカーステレオはピッタリと密着しているものである。この仕上げで客から金を取る。大英帝国の威信はどこに行った?
エンジンをかけ、走り始めた。エンジン音がけたたましい。というか、うるさい。アクセルを踏み込む。エンジン音は一層うるさくなった。耳を塞ぎたいほどである。それなのに、車の速度はなかなか上がってくれない。さらにアクセルを踏んでも、音がうるさくなるだけでなかなか思ったようなスピードになってくれないのだ。
「児玉よ、お前、なんでこんなボロ車を買った?」
「いやー、ミニって格好よかけんねえ。それで買うたつばってんねえ‥‥」
オースティン・ミニは大英帝国が生み出した名車のひとつと言われていた。何よりも、あの小さな車体に、大人4人が乗ることができる室内空間を確保した設計思想が評価されたのだろう。日本の軽自動車も、車体の設計ではオースティン・ミニをモデルにしたはずだ。
しかし、かつての名車もいつしか駄馬となった。私が岐阜にいた頃知り合った自動車整備工場の社長は
「ミニ? ああ、いい車だけど、あれ、半年に1回は整備工場に入るんだわ。あちこちが故障してね、あれ、やめといた方がいいですよ」
といっていた。児玉がオースティン・ミニを買ったのは、それからずっと後のことである。落ち目になったミニは、品質が最悪まで落ちてしまったらしい。新車の燃料パイプの中が錆びるとは‥‥。
いまミニはBMWが買収し、見事に復活させた。モデルチェンジを繰り返すたびに大きくなるボディを、デザイン力で小さく見せているのは流石だと思う。ミニの最大のの特徴は「小ささ」なのだから。
児玉もBMWミニを買っておれば、あのようなことは起きなかったはずだ。もっとも、当時はまだ英国のローバーは独立した会社であり、ミニはローバー社製しかなかったから、仕方なかったが。
これも、今となってはこだまの良き思い出である。