2025
04.12

高齢者講習を受けてきた

らかす日誌

今日は朝から高齢者講習なるものを受けてきた。希望して参加したいのではない。なんでも、後期高齢者になると、この講習を受けないと運転免許を更新してもらえない。まだ車は手放せないので、いやいやながらの参加である。

これで、高齢者を対象にした運転免許関連の講習を受けるのは3回目である。1回目は前回の免許更新時だった。今回と同じで、座学と運転の実技だったが、幸いなことに当時は、まだ新型コロナ禍から抜け出してはいなかった。運転実技となれば狭い車内に数人が密閉される時間が生まれる。コロナという名のウイルス君にとっては、ほかの生命体に飛び移る絶好のチャンスである。
だからだろう、

「ということで、実技を受けたくない方はいらっしゃいませんか?」

という問いかけがあった。私は真っ先に手を上げて運転実技をさぼった。いや、コロナに脅えたわけではない。ほぼ毎日車を運転する暮らしである。腕には覚えがある。それを実技実習だって? みそ汁で顔を洗って出直せよ! という気分でのさぼりであった。

2度目はほんのしばらく前である。「認知機能検査」というのを受けないと免許を更新してやらないぞ、という手紙を受け取り、これもしぶしぶ参加せざるを得なかった。

そして今日が3回目だ。「認知機能検査」は無事通過したらしく、次の関門として高齢者講習を受けなければならないのがいまの制度なのだ。そしていま、あれほど猛威を振るった新型コロナはどこかに行っちゃった。実技講習をさぼる理由がなくなった。

実技講習で私とペアになったのは90歳のおじいちゃんである。いや、私もあとわずか15年で(生きていれば)同じ歳になるから、お兄ちゃんと呼ぶべきかもしれない。
最初にハンドルを持ったのは、そのお兄ちゃんだった。私は後部座席に乗った。さてこのお兄ちゃん、いかなるハンドルさばきを見せてくれるのか。
なるほど、寄る年波とはこのようなことであったか。まず、アクセルの踏み方が不十分である。なかなか加速しない。何を恐れるのか、車線の右端を走りたがる。自分の車の左側をこすった苦い体験でもあるのか。

山場は段差踏み越えである。10cmの段差を乗り越え、乗り越えたらすぐにブレーキを踏む。暴走してコンビニや病院に激突する高齢者が運転する車のニュースがこれでもかと報じられたことを受けて取り入れられたテストらしい。つまり、高齢者はアクセルとブレーキを踏み間違えるものであるとの一方的な思い込みによる導入ではないかというのが私の考えである。だって、かかとを床につけてアクセルとブレーキを操作すれば、踏み間違えることなんて起きようがないではないか。踏み間違えるというのは、かかとを床につけず、右足全体を持ち上げてアクセル・ブレーキの操作をしているからだとしか思えないのだ。

それはそれとして、お兄ちゃん、このテストでも苦労した。まず、10cmの段差をなかなか乗り上げられない。アクセルは踏んでいる。タイヤが空転している感じもある。それなのに車は段差に乗り上げることができない。
何度目かでやっと乗り上げた。ところがお兄ちゃん、なかなかブレーキを踏まない。ために、乗り上げて1mも走ってやっと車が止まった。指導者が行った。

「はい、ではバックしてもう一度やってみましょうね」

乗り上げる→すぐに車を止める、というテストである。すぐに止まることできなければ繰り返しやらせるしかないと指導者は考えたようだ。
お兄ちゃんが

「はい、それでいいですよ」

と承認されたのは3回目だったか、4回目だったか。

まもなく、私がハンドルを握る番になった。車はトヨタ・プリウスである。あまり乗りたい車ではない。運転席に座り、サイドミラーとバックミラーを調整する。そして走り出した。
注意されたのは、

「30kmで走ってください」

といわれたコースで、ふと速度計を見ると39kmになっていたとき程度である。そうそう、このテストの肝である段差乗り上げは1発で合格。タイヤをスリップさせることなく、すんなり乗り上げて直ちにブレーキを踏んだ。指導者は

「100点です」

といった。私は現役の運転者である。この程度のことは当たり前だろ?

というわけで、高齢者講習は難なく乗り越え、あとは免許更新の手続きを待つばかりなのだが、一連の講習で気になることがある。いや、気になるというより、腹立たしいことがある。指導者、講師が、まるで小学校低学年の子供たちに何かを教えるような話し方をすることだ。とにかく微に入り細をうがち、

「そんなことはいわれなくてもわかっているぞ!」

「さっき言ったことを繰り返しているだけじゃないか!」

という話が続くのである。聞いていて、何だかバカにされているような気になる。おい、後期高齢者の知的年齢は8、9歳並にまで落ちるのか? バカにするのもいい加減にしろ! と叫び出したくなるのだ。
ま、私は常識を備えた大人である。もちろん、叫び出したりはしない。代わりに、講師の話を馬耳東風に聞き流す。そうでもしなければ心の平安を保てないのだ。

とはいえ、指導者、講師を務めた方々はこれまで数多くの後期高齢者に接して来たはずである。その結果としていまの話し方がある。ということは、あれか? 後期高齢者の多くはあんな話し方をしないと物事を理解できないのか? そんな人がほとんどなのか? とすれば、私もいずれ、そのようなぼけ老人になってしまうのか?

ああ、いやだ、いやだ。しかし、本当にそんなぼけ老人になってしまったとき、私は何を感じながら生きているのだろう? それとも、頭がそこまで惚ける前にこの世におさらばするのかな?
なるようになるさ、ケ・セ・ラ・セラ!