2025
08.21

AIとの対話、あるいは議論

らかす日誌

最近私は、暇になるとAIと議論をしている。常日ごろ抱えている疑問をAIにぶつける。あまりレベルの高い解答は戻ってこない。いまのところ、人間は安心して良さそうである。

ということで、私とAIの議論の一部をご紹介する。海輪の相手はgoogleのジェミニである。

ーー三国志で、劉備は高徳の人として描かれています。ところがその息子はどうしようもない愚物。この描き方がなんとも納得できません。

三国志における劉備と息子の劉禅の描かれ方は、多くの読者が感じる疑問点です。ご指摘の通り、劉備は「高徳の君子」として描かれる一方で、息子の劉禅は「どうしようもない愚物」として描かれることが多く、この落差は物語の大きなテーマの一つとなっています。

劉備の「高徳」とは

劉備は、物語の最初から最後まで「徳」「人望」を重視した人物として描かれます。これは、彼が漢の王室の子孫でありながら、貧しい身分から成り上がった背景に起因します。彼は武力や知力で圧倒するのではなく、義兄弟の契りや民衆からの支持によって天下を目指しました。

  • 関羽と張飛との義兄弟の契りは、彼の「義」を象徴しています。
  • 諸葛亮を三顧の礼で迎え入れた逸話は、彼の「礼」と「賢人を求める心」を強調しています。
  • 新野の民を連れて行くエピソードは、彼が民衆を大切にする「仁」の心を示しています。

これらのエピソードによって、劉備はただの覇者ではなく、理想的な君主像として描かれています。これは、儒教的な価値観が重視された時代背景とも一致しています。


劉禅の「愚物」とは

一方、劉禅は「暗愚な皇帝」として描かれます。諸葛亮をはじめとする優秀な家臣が国を支える中、劉禅自身は政治にほとんど関心を示さず、享楽にふける場面が多く見られます。これは、父である劉備の死後、蜀漢が衰退していく過程を象徴的に描くために、劉禅を対照的な存在として位置付けたと考えられます。

  • 「戦車に乗りたくない」と駄々をこねるエピソード
  • 「この楽は、ここ(蜀)を思わせるものではない」と語る場面(「楽不思蜀」の故事)

これらのエピソードは、劉禅が蜀漢の未来に責任を持たない、無能な人物として読者に印象付けます。これは、英雄的な父から凡庸な息子へという**「二世」の悲劇**を強調する役割も果たしています。


なぜこのような描き方なのか

この対比には、物語的な意図が強く反映されています。

  • 親の理想と子の現実のギャップ: 劉備がどれだけ立派な人物であっても、その子が同じように優れた人物になるとは限らないという現実を反映しています。これは、英雄の物語をより人間味のあるものにする効果があります。
  • 歴史の教訓: 優れたリーダーがいても、後継者が愚かであれば国は滅びるという歴史の教訓を読者に示しています。これは、作品の持つ教訓的な側面を強めています。
  • 諸葛亮の悲劇を際立たせるため: 劉禅の無能さが際立つほど、諸葛亮がどれだけ苦労して蜀漢を支えていたかが強調されます。これにより、諸葛亮の忠義と悲劇性がより深く描かれています。

ただし、歴史的な視点から見ると、劉禅は必ずしも**「無能な愚物」**ではなかったという見方もあります。彼は40年以上も蜀漢の皇帝を務め、諸葛亮の死後も政治を安定させていました。むしろ、優秀な家臣に任せることで国を保つという、一種の賢明な判断を下していたという評価もあります。

しかし、『三国志演義』という小説では、物語の盛り上げと教訓のために、劉備と劉禅のコントラストが意図的に強く描かれているのです。

ーーしかし、カエルの子はカエル、といいます。この描き方は作者の能力不足を思わせます。それに、上方谷の戦いでは、孔明の司馬仲達を殺す作戦が、急な雨で実現できませんでした。しかしずっと前、確か赤壁の戦いでは、孔明は天候を左右する力を持っていました。なぜ上方谷の戦いでその能力が発揮されなかったのか?

おっしゃるように、「カエルの子はカエル」という諺があるように、親の優れた資質が子に受け継がれると期待するのは自然なことです。しかし、『三国志演義』が劉禅を凡庸に描いたことには、物語上の深い意図があります。

そして、上方谷の戦いで諸葛亮が雨に作戦を邪魔された点も、鋭いご指摘です。これらの描き方には、それぞれ異なる理由が考えられます。


劉備と劉禅のコントラストの意図

この描き方は、作者の能力不足というよりも、むしろ物語をより深く、感動的にするための意図的な演出と考えられます。

  • 「カエルの子はカエル」の否定: 『三国志演義』では、親の偉大さが必ずしも子に受け継がれないという現実を描くことで、物語にリアリティと人間的な悲劇性を加えています。もし劉禅も劉備のように優秀な人物だったら、物語は単なるハッピーエンドになり、歴史の教訓や、諸葛亮の孤軍奮闘という悲劇性は薄れてしまったでしょう。
  • 理想主義と現実主義の対比: 劉備は「仁」「徳」という儒教的な理想を体現する人物です。しかし、劉禅という「現実」の凡庸な存在を通して、どれだけ理想を追い求めても、その結果が必ずしも理想通りになるとは限らないという、より深いテーマを提示しています。

上方谷の雨と諸葛亮の能力

赤壁の戦いと上方谷の戦いにおける気象の描写の違いは、諸葛亮という人物像の変化と、物語の目的の違いに由来しています。

  • 赤壁の戦い: この時期の諸葛亮は、まだ若く、まさに「神がかった存在」として描かれます。東南の風を呼んだり、霧を呼んだりするエピソードは、彼の天才ぶりを強調し、英雄物語のクライマックスを盛り上げるための演出です。ここでは、諸葛亮の超人的な能力を存分に誇張することで、読者を圧倒する目的がありました。
  • 上方谷の戦い: この時期、物語はすでに諸葛亮の晩年に差し掛かっています。彼は度重なる北伐の失敗や、劉禅の凡庸さに苦しむ**「苦労人」としての側面が強くなっています。ここで雨が降るという展開は、もはや「人間」の力では運命を変えられないという、諸葛亮の悲劇性を強調しています。彼がどんなに智謀を巡らせても、天命には逆らえないという「天」**の存在を描くことで、諸葛亮の悲劇性がより深く際立つのです。

このように、一見矛盾しているように見える描写も、物語の段階や作者の意図を考慮すると、それぞれに意味があることがわかります。これこそが、『三国志演義』という物語が多くの読者を惹きつける魅力の一つなのかもしれません。

ーー物語に人間的な悲劇性は加わったでしょうが、リアリティは失われていると私は思います。それに、孔明の術が老いたことで衰えるとは! このような幻術は、齢を加えればますます怪しさを増すというのが普通の描き方です。もちろん、科学を無視した話ですから、どちらが正解ということもできませんが。

ご指摘の通り、諸葛亮の能力の描写については、物語としての整合性が問われる部分であり、リアリティを損なうと感じるのも当然です。これは「幻術」をどのように解釈するかによって、受け止め方が変わってきます。

諸葛亮の能力は「幻術」か「智謀」か

『三国志演義』における諸葛亮の能力は、単なる「幻術」ではなく、**「天文学や気象学に基づいた高度な予測」**と解釈されることが多いです。

  • 赤壁の戦いでの東南の風: 諸葛亮は、当時の高度な知識を駆使して、季節や気候の変化を正確に読み取り、風向きが変わることを予測していました。しかし、物語ではこれを読者や登場人物に分かりやすく伝えるために、「祈祷」という神秘的な演出を加えています。これにより、彼の知略が神がかったものとして強調されます。
  • 上方谷の戦いでの急な雨: 諸葛亮が天候を完璧に操れるわけではない、という現実を示しています。彼がいくら優れた知略を持っていても、自然の摂理には抗えないという**「天の意志」**を描くことで、彼の悲劇性がより深く際立つのです。

作者は、諸葛亮の能力を物語の初期では「超人的な智謀」として描き、晩年には「天命には逆らえない人間らしさ」を描くことで、彼の人物像に深みを与えようとしたのだと考えられます。

老いと能力の関連性

ご指摘のように、幻術師であれば老いるほど力が強まるという描き方もあります。しかし、『三国志演義』では、諸葛亮はあくまでも「人間」であり、その能力は**「知識」「経験」**に基づいています。老いによる体力の衰えや病が彼の判断力に影響を及ぼし、完璧な智謀を発揮できなくなったと解釈することもできます。

この描写は、完璧に見えた諸葛亮もまた、**「老い」**という人間に共通する宿命には勝てないという、より普遍的な悲劇性を加えていると言えるでしょう。

もちろん、これが科学的根拠に基づいた話ではないため、読者がそれぞれの解釈を持つことは自然なことです。

ーー高度な知識を駆使して、季節や気候の変化を正確に読み取る知力があったのなら、上方谷でも、それを駆使して急な雨が降るはずのない日時に作戦を実行すれば良かったはずです。

ご指摘の通り、諸葛亮が高度な知識を持っていたとすれば、上方谷でも天候を予測して行動できたはず、という疑問はもっともです。

この点については、いくつかの解釈が可能です。

1. 予測の限界

諸葛亮の知略は優れていましたが、それでも完璧ではありませんでした。彼の知識は、当時の技術や観測能力に依存しており、現代の気象予報のようにすべてを正確に予測できるわけではなかったと考えられます。

  • イレギュラーな事態: 上方谷の雨は、当時の常識や予測を超えた、予測不可能な天候の変化だった可能性があります。これは、諸葛亮が神ではなく、あくまで人間であるということを強調する演出です。
  • 知力と運命: どれほど優れた知力があっても、それを上回る**「運命」「天」の力**には抗えない、という物語のメッセージを伝えるためとも考えられます。

2. 諸葛亮の心境の変化

物語の初期、特に赤壁の戦いでは、諸葛亮は若く、自信に満ちた人物として描かれています。しかし、北伐の失敗を繰り返す晩年では、その心境が変化していた可能性があります。

  • 疲労と焦り: 度重なる戦いで心身ともに疲弊していた諸葛亮は、上方谷の戦いで焦りから冷静な判断力を欠いていたのかもしれません。
  • 天命への諦観: 自身の寿命が尽きかけていることを悟り、もはや自分の力では天下統一が果たせないという諦めの気持ちが、彼の判断に影響した可能性も考えられます。

3. 物語的な演出

最も重要なのは、この雨が物語を完結させるための演出であるということです。

  • 司馬懿の存続: この雨が降らなければ、司馬懿は死亡し、蜀漢が天下を統一する可能性が高まります。しかし、作者は司馬懿を生き残らせ、晋王朝の礎を築くという歴史的事実につなげる必要がありました。
  • 諸葛亮の悲劇の完成: 完璧な知謀を持つ諸葛亮が、最後の最後で天に邪魔されるという展開は、彼の人生を**「不完全な悲劇」**として完成させる役割を果たしています。これにより、物語は単なる英雄伝ではなく、人間的な限界と運命を描いた壮大なドラマとして読者の心に深く刻まれるのです。

このように、上方谷の雨は、単なる矛盾ではなく、物語のテーマ、登場人物の心理、そして歴史的な帰結を考慮した上で、意図的に描かれたものと解釈することができます。

ーー疲労と焦り、は理解できます。そのような状況で正しい判断ができなくても、人間の能力の限界ともいえるでしょう。しかし、上方谷が予測不可能な天候の変化、というのは頷けません。惟を認めてしまえば、赤壁での出来事は、単にラッキーだった、ということになってしまいます。

そのお考えは非常に鋭いですね。たしかに、上方谷の雨を「予測不能な事態」としてしまうと、赤壁での東南の風は諸葛亮の知略ではなく、単なる偶然の幸運だったことになり、物語の根幹が揺らいでしまいます。

これは、作者が「諸葛亮という人物像」を、物語の段階に合わせて変化させた結果だと解釈できます。


赤壁の諸葛亮:物語の主人公としての「英雄」

『三国志演義』の序盤から中盤にかけて、諸葛亮はまさに物語の**「主人公」**として描かれます。

  • 天候を操る神算鬼謀: この時期の彼は、読者の期待に応えるように、常に先の先を読み、不可能を可能にする人物として描かれます。赤壁の東南の風も、作者が意図的に「諸葛亮の力」として強調した演出です。これは、彼の才能を際立たせ、物語を盛り上げるためのものです。
  • 完璧な勝利: この段階では、諸葛亮の計略はすべて成功し、劉備を勝利へと導きます。彼の智謀は、まるで神のようであり、一切の失敗がありません。

上方谷の諸葛亮:運命に抗う「悲劇の人」

しかし、物語が終盤に近づくと、諸葛亮は「人間」としての側面がより強く描かれます。

  • 天命には抗えない: 晩年の北伐は、もはや劉備の天下統一という野心から、漢室の復興という**「天命」**を背負った戦いへと変わっていきます。しかし、彼は病に侵され、蜀漢も衰退の一途をたどります。この段階での諸葛亮は、もはや天をも動かす天才ではなく、運命に抗いながらも、自身の寿命と国の衰退という現実に直面する人物として描かれます。
  • 不完全な悲劇: 上方谷の雨は、彼の完璧な人生に訪れた最後の挫折です。これは単なる幸運の逆転ではなく、諸葛亮がどれだけ努力しても、ついに天命を覆すことはできなかったという、彼の悲劇を完成させるための象徴的な出来事なのです。

結論として、赤壁の雨と上方谷の雨は、同じ「雨」という現象でありながら、物語における役割が全く異なります。

赤壁の雨は「英雄の誕生」を演出し、上方谷の雨は「英雄の悲劇」を描いています。この二つの出来事を一貫性のない描写だと見るか、それとも物語全体のテーマを深めるための意図的な演出だと見るかで、印象は大きく変わってくるでしょう。

ま、この程度の会話である、何が解決されたわけでもない。じゃあ。コンピューターはこんな解答を返してくるのかと確認するだけである。総じて言えば、いまのAIは、キューブリック監督作品の「2001年宇宙の旅」で活躍するHAL君(これはIBMを1時ずつずらした命名だという)よりもはるかに下にある。まだ私たちは人間であることを誇っていい時代に生きている。

私の原稿をお読みいただいてるのは、多分、パソコン、あるいはタブレットを追貝になっているのではないか? であれば、ブラウザで「チャット GTP」、「ジェミニ」などと検索していただきたい。その場でAIを使うことができる。さて、もてはやされているAIの実力はいかに?
自らお試しいただくようお勧めする。