2006
04.07

2006年4月7日 赤ひげ診療譚(新潮文庫 山本周五郎著)

らかす日誌

書店で、ふと目を引かれた。黒澤明監督の名画「赤ひげ」の原作である。その程度の知識はあった。映画は何度も見た。見るたびに涙腺を緩ませた。なのに、原作の方は読もうと思ったことがなかった。

「感動するのは、黒澤監督が撮った映画だからである。黒澤監督の力量にひれ伏すのだ。原作ではない」

それほど、黒澤監督への尊敬が大きかった。
だが、よくよく考えてみれば、黒澤監督がわざわざつまらない本を取り上げて映画にするわけがない。黒澤監督の製作意欲を揺り動かすものがこの本にはあるはずである。
書店で目を引かれた機会に、そう思い直した。買ったのは平成17年11月15日に出た92刷。昭和39年10月に初版が出てここまで版を重ねている。すごい。そんなに多くの人が読んでいるのか!

映画に劣らぬ名作だった。

長崎で最新の医学を学び、その知識を武器に医者としての出世街道を駆け上ろうという野心に溢れた保本登が、意に反して小石川療養所の門を叩くところから物語は始まる。小石川療養所は貧民、窮民に医療を施す施設で、こんなところで医者をやっていても出世にはつながらない。それに、汚く、臭い。不満である。
取り仕切るのは医長の新出去定、通称赤ひげだ。医者としての腕は超一流で、大名や豪商の主治医もしながら、なぜか、たいして金にもならない小石川療養所の医長を勤め続ける。家族もいない。一風変わった人物だ。
去定は保本に、長崎で学んだすべてを出せと命じる。冗談ではない。長崎で学んだことは、私の出世を担保するものだ。それを、何故公開しなければならない。保本は抵抗するが、無理矢理提出させられた。憤懣やるかたない保本は仕事をせず、サボタージュを続けるが……。

若さに特有の青臭い立身出世主義に凝り固まった俗物・保本が、赤ひげの謦咳に接するなかで、弱者への思いやりを身につけた立派な医師に、そして次代の「赤ひげ」に成長していく青春物語である。30年前の去定も、おそらく保本のような青年医師だったのだろう。

なにより惹かれるのは、去定という人物である。

 「この病気に限らず、あらゆる病気に対して治療法などない」 

 「医術がもっと進めば変わってくるかもしれない。だが、それでも、その個体の持っている生命力を凌ぐことはできないだろう」 

 「医術などといってもなさけないものだ。長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるばかりだ。病気が起こると、ある個体はそれを克服し、べつの個体は負けて倒れる。医者はその症状と経過を認めることができるし、生命力の強い個体には多少の助力をすることもできる。だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃあしない」

名医といわれる自分の医療行為を含めて、医療行為の限界を、頼りなさを正確に認識する。では、医師をやめるか? いや、彼は医療行為をやめない。全くのムダではないのなら、少しでも助けになるのなら、全身全霊をかけて病と格闘する患者の手助けをしてみよう。そんな男なのだ。崇高な愛の行為である。
命を預けるのなら、こんな医者にお願いしたい。

「人間の一生で、臨終ほど荘厳なものはない、それをよく見ておけ」

貧者にも富者にも、権力者にも庶民にも、いずれは等しく訪れる死。その瞬間が一生で最も荘厳とは……。なかなか吐ける言葉ではない。

「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」 

 「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもない」

尊く美しい人間と、卑しく汚らわしい人間の2種類が存在するのではない。同じ人間の中にすべてが同居しているのである。俺の中にも両方の人間がいる。お前の中にもいるだろう。万人の中に両方の人間がいるのだ。だから、人間とは愛おしいものなのだ。素晴らしい人間観だ。

これは恐らく、山本周五郎さんのものの見方なのだろう。これらを下敷きに、山本さんは限りなく優しい眼差しを弱い者、貧しい人たちに注ぎ、暮らしに追われ、病に倒れ、自ら命を絶つ、えげつないが美しい庶民の姿を描き出す。それがこの小説の最大の魅力である。
だから、小石川療養所の経費を削減する幕府への去定の怒りは、山本さんがこの小説を書いた昭和30年代の政府への怒りに直結する。弱者から税を取り立てながら、弱者を切り捨てようとする政治を、政治の本質を、去定の言葉で激しく批判する。

「幕府の経済が年貢運上によって成り立つことはいうまでもない。しかし、それを支えているものはつねに、もっとも多数の小商人や小百姓や職人たちだ、その例をここで並べる必要はないだろうし、その是非については一概に云えない面もある、それにしても、かれらが日雇い人足の僅かな賃銭にまで運上を課することや、施療を受けているような病人から食費を取る、などという無道さにはがまんがならぬ」

 「源氏であれ平家であれ、人間がいったん権力をにぎれば、必ずその権力を護るための法が布かれ、政治がおこなわれる、いつの次代でもだ」

このところ、小さな政府とやらがすっかり流行だ。国立大学の授業料が上がり、大学が独立行政法人になり、医療費の個人負担が増え、と様々な政府支出削減策が相次いだ。こうして行政サービスは下がった。なのに、それでも金が足りないといって、課税最低限の引き下げ、消費税率引き上げなど増税策が続々と姿を現す。去定が生きた時代とまるで同じである。
おいおい、これで誰が幸せになるんだよ。あんたたち、去定先生の爪の垢でも煎じて飲んだらどうだね、と私なんぞは叫び出したくなる。

怒りがあり、無力感があり、人間への愛おしさがあり、人の矜持があり、涙がある。「赤ひげ診療譚」、映画「赤ひげ」とあわせて、万人に読んで頂きたい本だ。