2024
12.21

今年も、「講評」なるものをやらされた

らかす日誌

今日は第2回桐生子ども新聞コンテストの表彰式だった。今回も、何故か私が審査委員を代表させられ(私は審査委員ではあるが、審査委員長ではない)、表彰状授与のあと、演壇に上げられて「講評」なるものをやらされた。

実は、表彰式が迫るにつれて、この「講評」が悩みのタネになった。
昨年の1回目は気楽だった。最優秀賞の2作品について、なぜこの作品が選ばれたのかを話し、新聞記事の書き方らしきものを付け加えれば良かった。その程度の話しなら、いつでもできる。

今回違ったのは、コンテストが2回目を迎え、問題点が浮かび上がってきたからだ。
問題点。それはこういうことである。応募作(今回は273点)のほとんどが、校外学習に行った時の話であることだ。
桐生市の小学生は、浄水場、清掃センター、その隣にあって清掃センターから出る熱を利用したカリビアンビーチという温水プール、昆虫の森などに出かける。きっと鉛筆とノートを持ち、説明してくれるおじさん、お兄さん、お姉さんの話を熱心にメモしてくるはずだ。そのメモを元に、自分が学んだことを新聞にまとめる。きっと担任の先生がそのように指導しているのだろう。

その何が困るのか。
勉強したことをまとめ、

「私はこれだけ勉強しました」

という文章は新聞記事ではないことだ。
新聞記事の対象は、たくさんの人達である。そのたくさんの人たちに、伝えなければならないこと、伝えたいことを書くのが新聞の記事である。
しかし、校外学習で

「私はこれだけ勉強しました」

という文章を読むのは担任の先生しかいない。子どもたちの学習の進度を知るには必要な文章だろう。しかし、そんな文章を読みたい人がたくさんいるはずはない。なにしろ、30人の学級だったら、30人が同じ学習の成果を文章にしてくるのである。よく出来たもの、少し足りないもの、説明を誤解したもの、様々な新聞が応募作品のほとんどを占める。

「これ、学級担任の問題だよね」

という話が審査委員会で出た。

「そもそも、いまの小学校の先生って、新聞を読んでいるのだろうか?」

と話す人もいた。新聞に触れずして子どもたちに新聞を作らせる。どれがいい子ども新聞で、どれがいまいちな子ども新聞なのか、新聞を知らない人が判断できるのか?
何だかブラックジョークである。

その問題を話したほうがいいのかどうか。それが今回の私の悩みだったのである。

いや、そういえば、同じようなことを前回話した記憶もある。

「新聞って、これを多くの人に知って欲しいという思いがまずあり、それをより良く知ってもらうために必要があれば勉強をして知識を加え、読む人に分かりやすく、納得できる文章を書くのです」

みたいなことを話したのではなかったか。その結果が今回の応募作品であるとすると、ここでそんな問題点を話しても意味がないのではないか?

その迷いは、いよいよ私が演壇に上がるまで続いた。ここまで来れば

「まあ、恥をかいてくるか」

開き直るしかない。

私は最優秀作2作品にコメントしたあと、家庭で新聞を取っている子どもたちに手を挙げたもらった。あがったのは10人内外の手だった。つまり全体の4分の1程度。なるほど、新聞の部数が減るはずである。
それを見て、私は自分の記者暦に話を振った。

「最初に赴任したのは、三重県の津市でした。それから岐阜市に移り、次が名古屋。津、岐阜、名古屋ってどこにあるか知ってる?」

続いて経済記者だったことを話し、海外に取材に出たことも話した。その上で、こう話を次いだ。

「でもね、私が最初に書いたのは交通事故の原稿でした。〇日、△△で、▢さんの車と✖️さんの車が正面衝突した。警察で原因を調べている、みたいな記事です。でも、こんな記事は、私がどう思ったか、感じたか、なんて一切書きません。自分の想い、考えを書くのはもう少し先です。あなたたちが作る新聞は、交通事故や火事、強盗など『伝えなければならないこと』を書くのではなく、『伝えたいこと』を書くのだと思います。でもね、ここに花が飾ってありますが、この花の美しさを文章で伝えるのは大変に難しい。テレビなら写せば済む。でも、新聞には文章しかありません。『花がきれいです』と書いても、読む人には美しさは伝わりません。その花の美しさを読む人に感じてもらうにはどんな文章にしたらいいのか、大変難しいことですが、文章を書くとはそういうことなのです」

いや、これが子どもたちに伝わったかどうかは不明である。最前列で頷いてくれる子もいたが、私だって花の美しさを文章で伝える術を身につけているとは思えないのだから、小学生の彼らに役に立ったかどうか。

子ども新聞コンテストを立ち上げたのは、創造性に溢れる子どもたちを育てたいからである。そこで、話をこう繋いだ。

「私たちがコンテストを始めたのは、何かを創り出す子どもたちを育てたいからです。気流を担える人、いや、日本の担える人ができて欲しいからです。そこで、創造性を壊してしまう『ま・み・む・め・も』の原則を教えましょう」

:負けたくない
:道への恐れ
:難しい
:面倒くさい
:もったいない

演壇からは、なぜそれが創造性を潰すのか説明した。たとえば、負けてもいんだよ。負けたくないからここには手を触れないというより、結果を考えずに興味を惹かれたことはやってみた方がいい、という類である。のこりは皆さんに考えていただきたい。

あわせて、これもダメだよ、という5項目も挙げた。

◉答えは1つ
◉現実的ではない
◉それは無理です
◉昔からやっている
◉それは私の仕事ではない

これも演壇からは解説を付け加えたことはいうまでもない。そして、ここでは皆様にお考えいただくのも「まもみむめも」と同じである。

「偉そうなことをいいましたが、実はこれ、私が考えたことではありません。東京、世田谷にある中高一貫校の教頭だったMaさんに教えてもらいました。Maさんはそこに、あ、Maさん、寝てるわ!」

そんな話で10分? 15分? 時間を費やして演壇を降りた。
こんな苦労、ストレスは後期高齢者になった今、次回からはお断りしたいのだが、

「いや、大道さん、素晴らしかった!」

ならともかく、

「来年の講評を楽しみにしてます

といわれた私であった。
豚もおだてりゃ木に登る。おだてにおだてられて、私は来年も演壇に登るのだろうな、と諦めの境地である。