01.24
妻女殿の体力は回復過程にあるようだ
心臓手術を経て、妻女殿の体力は少しずつ回復しつつあるようだ。
妻女殿の入院以来、家事はほとんど私が引き受けてきた。退院後も炊事、家事、掃除、洗濯、全て私の仕事だった。まあ70余日も入院していたのだから、体力は落ちているはずだ。それは仕方がない。
そんな暮らしの中で、私は1つだけ仕掛けをした。朝食、昼食が済むと、後片付けをせずにパイプタバコをくゆらすために外に出るのである。駐車場に置いたデレクターズチェアに座り、パイプを咥えて読書する。それを日課にした。吸い終わって屋内に戻り、汚れた食器がそのままであれば、何もいわずに私が洗う。そんな暮らしを続けた。
妻女殿の体力が回復してくれば、黙っていても汚れた食器は彼女が洗うはずだと思ってのことである。夫婦とは暮らしを続ける上での役割分担なのだ。私が外回りを引き受け、いまだに些少とはいえ収入を得ている。であるから、家の中の仕事は妻たるものがこなさなければならない、と私は思う。
だが、一方が病を得れば原則は崩さなければ暮らしは成り立たない。それが妻女殿が入院して以来の我が家であった。
妻女殿は退院した。だが、退院したからといって、
「おい、後片付けはできるか?」
と問いかけるのは、暗黙の強制になる。ほぼ全ての家事を私がこなしているのが現状だとしても、妻女殿の身体に力が戻れば
「私だって少しはできる!」
と思って行動に移すはずである。言葉で強制するより、本人の自主的な行動を待つ。そちらの方がお互いに気持ちよいはずである。それが私の戦略だった。
それが徐々に実ってきた。今朝はパイプを吸い終わった私が食器を洗おうかとダイニングルームに入っていくと、
「もう洗ったから」
とおっしゃった。ほう、それほどまでに体力が戻ってきたのか。
もっとも、土鍋を使った鍋料理を食べた夜は私が後片付けをした。土鍋は妻女殿には持てないからである。体力は一気に回復するものではない。
今日は前橋日赤に行く日だった。退院後、妻女殿の歩行は手押し車に支えられてきた。日赤肉ためにまず玄関を出る。そこには福祉関連の器具を扱う業者が設置した手すりがある。妻女殿はそれにつかまり、外に出る。手すりが途切れたところから車までは手押し車で移動する。足が弱っている以上、仕方がないことである。
ところが今朝は違った。
「杖でいいから、手押し車はいいわ」
つまり、手押し車は要らない。手すりがあるところは手すりに頼るが、そこから車までは杖を頼りに歩くというのである。
ほう、足の方も少しは力がついてきたか。
退院後、前橋日赤に行く日は、私がずっとサポートした。日赤まで車で行き、玄関前に止めると私は車を降りて車椅子を取りに行く。その車椅子に妻女殿が座ったのを見届けて車を駐車場に入れ、玄関に舞い戻って車椅子を押す。診療科まで押していったあとは、窓際のソファに座り込んで専ら読書をした。妻女殿はほったらかしである。動く必要があったら自分で動け。自分で動けなければ俺を電話で呼べ。
自分の身体を自分の意思で移動させられないのは苛立たしいことだと思う。何せ、移動の自由は憲法で保障されているのだ。その自由を行使できないのは屈辱ではないか。
だから、できるだけ妻女殿を放っておいた。自立を促すためである。これも、言葉でいうより、自立せざるを得ない状況に追い込んだ方がいいと考えた結果である。
「お前、大丈夫か? 俺が〇〇をやってやろうか?」
などというベタベタした思いやりは自己満足に過ぎない。
ところが今日。
「お父さん(何故か私はそう呼ばれる)、私を降ろしたらけやきウォークに行っていいわよ。本屋でクロワッサン、私の昼食に穴子弁当を買って来て」
そうか、やっと自分で動こうと思うほど身体が元に戻ったか。
「お前、病院内ではどうやって動くんだ? 杖か? それとも病院備え付けの押し車か?」
「押し車」
こうして前橋日赤の入り口前で車を止めた私は車を離れ、手押し車を取りに行き、妻女殿が動き始めたのの見届けてけやきウォークに向かった。
少しずつではあるが、我が家に日常が戻りつつあるようだ。もっとも、我が家の日常とは夫婦喧嘩の連続だから、日常が戻るのがいいことなのかどうか。
それでも、妻女殿の体力が回復しつつあるのは、やはり喜ばしいことなのだろう。