03.11
ジェームス・ディーンにはなれなかったけど、と児玉の話
児玉の思い出話を続けよう。
いつのことだったか正確には思い出せないが、野村證券の社長を務められた田淵義久さん夫妻を、横浜の我が家にお呼びしたことがある。記者と取材先という枠を超えてお付き合いいただいた方だ。何度もご自宅に我がファミリーを招いてくださるなど散々お世話になったので、少しでもお返ししたかったのだ。
快く受けてくださった。そこで聞いてみた。
「田淵さん、当日は何を食べたいですか? せっかく大見えいただくのだから、できるだけリクエストに応えたいと思いまして」
しばらく考えてていた田淵さんは言った。
「そうだな、はりはり鍋が食いたいな。しばらく食べてないからな。だけど大道君、そんなものできるのか?」
私は食べたことはないが、できるのである。児玉に頼めばよろしい。奴は万能の料理人なのだ。児玉だって、田淵さんのような素敵な人と知り合いになれればいうことはないはずだ。
その思惑通り、児玉は2つ返事で引き受けてくれた。
盛り上がったのはいうまでもない。田淵さんは
「美味いなあ、これ」
と舌鼓を打ってくれた。
奥様は
「私ね、主人の部下や同僚の方々をお招きして食事を楽しんでいただいたことはあるけど、私がお招きに預かるのはこれが初めてなの。楽しいわ」
と喜んでくださった。
我が家のダイニングは2階にあり、食事が終われば1階のリビングの全員で移動するのが習いだ。長女が結婚するしばらく前で、国立音大に通う彼女が練習に使うヤマハのセミグランドのピアノが置いてあった。田淵ご夫妻には、長女の拙いピアノを聴いていていただいたはずである。
その後だったと思う。私と児玉は田淵亭に招かれた。児玉はここでも料理番で、パエリアを作り、スペイン風サラダを添えた。他にも食べ物はあったはずだが、記憶にない。
「ああ、児玉君」
と田淵さんが言った。
「その先にワインクーラーがあるんだ。適当なやつを2、3本出してきてくれないか。君が飲みたいと思う奴はどれでもいいぞ」
言われて児玉は、ワインクーラーのもとに赴いた。さて、どんなワインを選んでくるのだろう? と待っていると、
「大道さん、ちょっと」
と私を呼ぶ。何事かと私もワインクーラーのところまで行ってみた。
「これば見ててみんね。ほら、これ、ボジョレー・ヌーボーばい。しかも、10年もののヌーボーたい。誰かに貰うてワインクーラーに入れっぱなしにしとたつやろね。田淵さん、ワインのことばほんなこて知っとっとやろか?」
児玉によると、ボジョレー・ヌーボーは力のない種の葡萄から作る。普通のワインは5年、10年、20年と熟成させることでで味が良くなるが、ヌーボーに使う葡萄は熟成に耐えることができない。だから「新酒」を飲むのである。現地では、できたばかりののヌーボーををお互いにかぶっ掛け合って今年もワインができたと祝うのだそうだ。
つまり、出来立てを飲むしかないヌーボーの10年もの。普通はありえない存在なのだ。
と言いながら、児玉が選んだ3本には、その10年もののボジョレー・ヌーボーが入っていた。半分冗談、残りの半分は怖いもの見たさ、だったのだろう。
私ものその10年もののボジョレー・ヌーボーを口にした記憶はある。だが、どんな味だったか思い出せない。所詮ヌーボーである。
「美味い!」
と声に出したはずはないが、吐き出すほど不味かったという覚えもない。このヌーボー君、ワインクーラーの補完されたおかげで、出来立ての味を保っていたのか?
話を横浜の我が家に戻そう。我が家の1階のリビングは、防音室である。家を建てる時、
「記者をしている俺が音楽を聴けるのは夜中しかない」
と窓は2重にし、壁も2重張にして間に遮音材を入れた。
そんな部屋があるのだ。2階で児玉としたたかに酒を飲んだ後は、1階に移って音楽鑑賞である。
「よか音のするねえ。俺も欲しかなあ」
というからクリスキットを紹介した。私と同じものがいいという。
クリスキットは自分で組み立てなければならない。児玉にそんなことができるはずがない。
「作ってやろか?」
と聞くと、
「いや、俺が作る」
といって譲らない。児玉は自尊心の塊である。それで放っておいた。
「大道さん、あのくさ‥‥」
と電話が来たのはしばらくしてからである。
「やっぱ、俺には出来んごとある。作ってくれんね」
プリアンプ、パワーアンプ、マルチセルラーホーン、すべて作って差し上げた。無論、組み立て料は一切いただいていない。
話を我が家のリビングに戻す。
大音量で音楽を聴いていたら、児玉が言った。
「こげんとこで音楽ば聴きながら酒を飲むとは楽しかねえ。ああ、そうや。井上陽水ば呼ぼうか? 俺、陽水と知り合いやもん。俺が来いというたらあいつは来ると。呼んでよかね?」
もちろん、構わない。私はそれほど好きな歌手ではないが、有名人と知り合うのも面白いかもしれない。
それから2ヶ月経っても3ヶ月経っても、陽水は来なかった。まあ、多分忙しい人なのだろう。待たねばならない。
半年過ぎた。いくら忙しいといっても、半年たってもスケジュールが空かない?
「おい、陽水はどうなったんだ?」
児玉に聞いてみた。
「あ、陽水? うーん、陽水ね。いや、事務所に電話はしたとばってん、つないでくれんとやもんねぇ」
児玉と陽水の間柄はその程度のものだったらしい。
その児玉が、聞くと必ず涙を流す曲があった。岡林信康の「ジェームス・ディーンにはなれなかったけど」である。娘への愛、息子への愛、反抗ばかりしていた父親への切ない思いを切々と歌い上げた名曲である、
若い歌い手が死んだ まだ26の若さ
彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった
俺が歌に疲れ果て 山の村に逃げたのも
ちょうど同じ26 あれからもう20年
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった
Ah ~
娘は東京の大学 ある日下宿を訪ねた
久しぶりに見る姿 なぜか照れたまぶしくて
夏の夜 俺の胸で お月様を見上げてた
おまえがもう独り立ち 愛おしさがこみ上げた
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった
Ah ~
息子は高校2年生 初めて恋の痛みを
知って うな垂れているよ
こいつも もう そんな歳
人を好きになる心 なくしちゃ駄目になるよと
息子とこんな話を なんだかうれしかったよ
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった
Ah ~
俺は力のかぎりに 親父に歯向かい続け
彼の弱さ 醜さを 死んだあとも許せずに
ある日 鏡の向うに 親父と似た俺を見た
やっとこの歳になって 彼を愛し始めたか
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった
Ah ~
若い歌い手が死んだ まだ26の若さ
彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった
俺が歌に疲れ果て 山の村に逃げたのも
ちょうど同じ26 あれからもう20年
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった
Ah ~
この曲のどこが児玉の涙腺を刺激したのかは分からない。
ただ、児玉は決して幸せではない幼少期を送ったと聞いた。両親は離婚し、児玉を引き取った父は後妻を迎えた。その後妻と児玉は肌が合わなかったようである。
肉親にどのような思いを持ちながら児玉は人として齢を重ね、人となったのか?
今となっては永遠の謎である。