2025
04.10

忘れることのありがたさ

らかす日誌

このところ、忘れることをありがたいと思えるようになった。
といっても、死にたいほど辛かった失恋の痛みが時とともに薄らぎ、触ってもいたくないほどの思い出になった、という話ではない。
では、何か?

読んだ本、見た映画の中身ををすっかり忘れているのである。
最初に気がついたのは、しばらく前に横浜の自宅から桐生に持ってきた文庫本だった。「数学的にありえない」(アダム・ファイアー著、文春文庫)である。
多分、タイトルに釣られて買った本だった。すべてを確率計算しなければ気が済まない天才数学者が主人公で、やがて確率計算を使って未来を見通せるようになる。ただし、確実な未来ではなく、その未来が実現する確率を計算し、より可能性のある未来に賭けて目先の危機を乗り越えていく。

物語は、主人公が金を賭けたポーカーでまさかの敗北を喫するところから始まる。正確に勝敗の確率を計算し、ほぼ間違いなく勝てると計算したのに、確率論的にはほぼありえないカードを相手が持っていたのだ。おかげで胴元に借金ができ、厳しい取り立てにあうのだが、主人公には定収入がない。さて、どうやってこの危機から逃れるのか?
と展開するのだが、驚いたことに、このストーリーが全く頭に残っていないのだ。まあ、この手の小説のお約束として、主人公は必ず危機を脱するのだが、さて、どうやって危機を乗り越えたのかが全くわからない。だからはらはらドキドキしながら、次々とページをめくることになる。

「えーっ、こんなに面白い小説を読んでいたのか!」

と驚いた私は、ついつい同じ著者の本をAmazonで注文までした。「心理学的にありえない」である。上巻の4分の3ほど読み進んだが、これもたぐいまれな小説である。面白い。数年すれば、これもあらすじすら覚えていないだろうが。

次は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」だった。初めて中国に統一政権を打ち立てた秦が滅んだあと、誰が覇を唱えるのか。名門出身で驚異的な戦闘力を誇る楚の項羽と、庶民の出でからっきし弱い劉邦が天下をかけて戦う。有名な史実で、私は何冊もの本を読み、中国でつくられた長編歴史ドラマも見たから、

・四面楚歌
・ 鴻門の会
・韓信の股くぐり
・虞美人

など、いくつものエピソードは私の頭にこびりついている。
ところが、なのだ。この小説、全く記憶にない。たとえば、項羽配下の勇将、鯨布である。鯨布として知られるこの人物の本名は英布だが、彼は罪を得て刑罰として顔に入れ墨をされていた。鯨とは入れ墨のことで、そのために「鯨」を得た「布」として鯨布と呼ばれたと司馬さんは書いている。
いや、その程度なら忘れることもあろう。ぎょっとしたのは魏志倭人伝に「男子は大小無く、皆黥面文身す」という記述があることに触れ、古代日本と楚はつながっていた、日本は楚から文化的、文明的な影響を受けていた、と指摘されていたことだ。加えて、楚があった揚子江の南は米を主食とし、劉邦が出た漢があった江北は小麦が主食だった、とも書いてある。日本の主食は米である。つながりはほぼ確実だ。文化や文明、新しい栽培技術などは人の移動に伴うことが多い。だとすれば、我々には項羽など楚人の血も混じっているのではないか。

私は一時期、邪馬台国は九州にあったという古田武彦さんの史学(「邪馬台国はなかった」など)にどっぷり浸かったことがある。である以上、「項羽と劉邦」を初めて読んだとき、上に書いたような事実に強い印象を持ったはずだ。それなのに、再読して改めて新知識を得た思いを持った。つまり、一度は強い印象を受けながら、いつの間にか完全に忘れていたことになる。情けない。

映画もそうである。わが家にある映画はすべて見た。その中で二度と見ないだろうと思った映画は押し入れにしまった。棚にあるのは

「見て損のない映画」

と判断したものばかりである。夕食後の時間を過ごすため、その映画を少しずつ再見し始めた。これが、中身を面白いように覚えていないのだ。
私は85本の映画を「シネマらかす」として文章にしてきた。文章にするあため同じ映画を何度も見た。この85本はさすがにあらすじは記憶にあるものの、見るたびに新しい発見がある。あれ、この映画、あんな書き方でよかったのかな? と思わされる。

しかし、それでいいではないか。忘れるということは、同じ楽しみを何度も味わうことができるということともいえる。おまけに、新しい本を買う必要がほとんどなくなった。昔買った本を引っ張り出せば、初読と同じように楽しむことができる。新しい本を買う必要がない。財布の中身を守ることができる‥‥。

齢を重ねるとは、昔のことを一つずつ忘れ去っていくことなのかもしれない。生きてきた道筋を忘却の彼方に追いやることかもしれない。悲しいこと、情けないことかもしれない。
だがそれだって、考えようによっては天の恵みである。かつて読んで心を揺さぶられた本が、むかし見て感動した映画が、いま読んで、見て、初めてその作品に触れたあの時とほぼ同じように私を楽しませてくれる。本も映画も、最近の作品はあまり面白くない。芥川賞受賞作は退屈の極みだし、日本映画は笑えないギャグ路線を走っているし、ハリウッドの新作もなんだかなあ、が現代である。

であれば、古い本、古い映画で自分を慰めるしかない。だから、一度読んだ本、一度見た映画をほぼ覚えていないのは、天の恵みなのだと、最近の私は感謝しているのである。