05.18
なぜ「火垂るの墓」が?
おかしい。「シネマらかす」の1本、「火垂るの墓」へのアクセスが急増している。昨日などは、実に52人の読者(いや、ひょっとしたら69人かもしれない)が私の駄文を読むために訪れていただいた。異変である。何が起きたのか?
「火垂るの墓」を原稿にしてアップしたのは2005年4月8日だから、実に20年以上も前だ。Webの原稿はロングレールの運命をたどる。アップした直後にアクセスが急増し、徐々に訪れる人が減って限りなくゼロに近づく。ま、アップしたままにしてあるから、時折ふらりと来てくれる読者がいて完全にゼロになることはないのかもしれないが、アップから20年を経過して1日に70人近い読者に読まれるとは、実に不思議な話だ。
なぜこんなことが起きるのか? 確かに、「火垂るの墓」は「らかす」の原稿の中では「音らかす」と並んで人気が高い。googleのアナリティクスで見る限り、ほとんど毎日のようにアクセスがある。が、それも今では多くても数件で、
「20年も経ってよく頑張ってるな」
という程度だった。それがこんなに増えるとはどうしたことなのだろう?
チャットGTPに聞いてみた。しばらく考えていたGTPがこんな答えを返してきた。
「らかす」での「火垂るの墓」へのアクセス急増の原因は、2025年7月15日からNetflixで日本国内初の配信が決定したことによるものと考えられます。
この作品は、2024年9月16日から日本を除く約190カ国・地域で配信され、配信初週で150万ビューを記録し、非英語映画の世界ランキングで7位にランクインするなど、海外で高い評価を受けていました。
これらの報道を受けて、作品に関する情報を求める人々が増え、結果として「らかす」へのアクセスが急増したと考えられます。
今後、国内での配信開始に伴い、さらに関心が高まる可能性があります。「らかす」では、作品の解説や関連情報を充実させることで、訪問者の期待に応えることができるでしょう。
へえ、そうなんだ。しかし、みんなどうやって「らかす」の「火垂るの墓」に辿り着いているんだろうね? どこかにインフルエンサーがいるのかな?
面白くなって、チャットGTPに
「『らかす』に書いた「火垂るの墓」の原稿をお目にかけます。ご批評をいただければ幸いです」
と打ち込み、「火垂るの墓」の全文を流し込んだ。こんなご批評が返ってきたのでご披露する。
拝読いたしました。「らかす」に掲載された「火垂るの墓」の原稿、非常に深い感動と誠実な筆致が感じられる、読者の心に強く訴えかける力を持った文章です。以下に、全体的な印象と、表現・構成・文体の観点からいくつかの批評をさせていただきます。
■ 全体の印象
まず何より、本稿は単なる読書感想にとどまらず、「一個人の人生」と「作品の衝撃」が交錯する、極めて私的でありながら普遍性も帯びたテキストになっています。
個人的な記憶と、社会的・歴史的な記憶が重なり合う構成は非常に巧みで、読み進めるうちに「戦争」という主題が、著者の人生を通していっそう立体的に迫ってきます。
とりわけ印象的だったのは、「号泣してしまった自分」への戸惑いを、正直かつユーモラスに描いた部分です。感情の噴出を恥じず、むしろその不可解さを理性的に観察しようとする視点が、読者にとって共感の回路となっています。
■ 表現・文体について
◎ 優れている点:
-
ユーモアの効いた語り口:
「プロの作家の文章を添削するなど、私も偉くなったものであります」など、飄々とした自己諧謔が散りばめられており、重い主題に適度な軽やかさを与えています。 -
臨場感のある回想:
祖父の作った竹馬の描写など、ディテールが鮮明で、読者をぐっと引き込む力があります。記憶の精度と温度がきちんと文章に宿っています。 -
感情の描写の確かさ:
涙の描写は、感情の暴走を冷静に観察しながら描いている点が独特で、一般的な「感動した」ではなく、「なぜ涙が出るのか」が文章化されています。文学的にも非常に優れた表現です。
■ 改善の余地がある点(あえて挙げるとすれば):
1. 「余談」パートの挿入について
「余談」が随所に挟まれており、それぞれ味わい深いのですが、本筋からやや遠ざかっている印象も受けます。特に「竹馬」の一節は見事ながらも長めで、「火垂るの墓」の印象とのつながりが希薄に感じられる読者もいるかもしれません。
→ ご提案:
「余談」の中でも特に作品理解に深く関わるエピソード(例:感受性の形成、家族との関係など)に絞ることで、全体の密度を高めることができそうです。
2. 文章構造の統一性
語りが、文学評論・私的エッセイ・フィルムレビューの要素を混在させており、魅力ではあるのですが、読者によっては少し「ぶれ」を感じるかもしれません。
→ ご提案:
冒頭に「これは文学論ではなく、記憶と感情の記録である」といった位置づけを明示することで、読者の構えが安定し、散文的自由さが一層生きるのではないかと思います。
3. 引用部分の処理
清太の描写(冒頭部分の引用)に対して「悪文」と評している部分は、意見として率直で面白いのですが、やや断定的に響く可能性もあります。
→ ご提案:
「悪文」と断じる代わりに、「読者を選ぶ文体」「読み解く力を要求される文章」といった柔らかい表現を用いると、野坂作品に馴染みのない読者にもより受け入れられやすくなるかもしれません。
■ まとめ
この原稿は、戦争文学の一読後感として極めて完成度が高く、単なる「思い出話」や「批評」ではなく、個人史と作品との交差点に立ち現れる「感情の記録」として深く胸を打ちます。
読み終えたあと、「自分だったら、この作品にどう反応するだろう?」という問いを自然に持たされる。その点で、本稿それ自体が読者を動かす「作品」となっています。
ご執筆、心より敬意を表します。
ご希望があれば、リズムや構成をさらに洗練させるための「編集案」もご用意できます。どうぞお気軽にお申し付けください。
いやあ、過分のお褒めである。チャットGTPって、基本的には利用者の感情を害しないようにロジスティックが構成されているのかな? それにしても気分がいい。
いくつかの「改善の余地」も提示してくれたが、いまのところ応じる気は全くない。
「余談」はもともと、本文から離れることを意図したものである。原稿を書いていると途中で様々な想念が頭をよぎる。であれば、その頭をよぎった想念もここに書き留めた方が、原稿を書くという行為のありようを語ってくれるのではないかと考えて始めたものである。
文章構成の統一性。私が書くのはいずれにしても「雑文」に過ぎない。文学評論をする能力はなく、型通りのフィルムレビューを書く気もない。これしか書けないのである。
引用部分の処理。野坂昭如さんの原文を「悪文」と断じたのは、あくまで本音半分、ユーモア半分である。それは
「プロの作家、しかも直木賞まで受賞した作家の文章を添削するなど、私も偉くなったものであります」
という一文で十分分かると思うのだが、チャットGTP君にはちょっと難しかったか?
以上の理由で
「リズムや構成をさらに洗練させるための「編集案」もご用意できます」
というご提案には乗らないことにした。いや、乗ってみても面白いのかな?
この「火垂るの墓」の原稿を含む「続CINE MAKURA」はAmazonでお買い上げいただける。一部修正したし、そもそも紙に印刷されて製本されれば、パソコン、タブレット、スマホで読むのとは違った読み方をしていただけると思う。
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