2025
08.29

イタリアに読者を得るかも

らかす日誌

私が書いてWebで公開している原稿が、ひょっとしたらイタリア語英語になるかもしれない。もちろん、「らかす」の話ではない。具体的な話になったらご報告する。しばらくお待ち願いたい。

それはそれとして、私は最近、身なりを構わなくなった。顔のヒゲなど1週間も剃らないことござらで、先頃は桐生市のO氏に

「ヒゲを剃らないと老けて見えるぜ」

とご注意をいただいた。まあ、それでもなかなか剃らない。

下半身に身に付けるのはここ数年、Gパンのみである。これ、汚れることが気にならないから使いやすい。1本のGパンを1週間から10日は平気では着続けている。3本のGパンを使い回しているが、左の後ろポケットにはiPhoneを入れるからそのポケットには3本とも穴が空いている。それも気にならない。

シャツは10数枚あり、それを順番に毎日取り換える。夏場で汗をかくから、いまの時期は仕方がない。そのうちの1枚は襟が擦れて中が露出していて、妻女殿は

「みっともないから捨てる」

とおっしゃるが、私にとっては何となく愛着のある1枚である。

「捨てなくてもいいよ。外出する予定がない日に着るから」

といまでも使っている。
外出するはずがなくて、この襟がすり切れたシャツをきている日に、たまたま外出をせざるを得ないことが持ち上がると、私はそのまま出かける。襟がすり切れたシャツを着た私を誰が見ても、気にならないのである。

いいじゃないか、誰が見たって。どこのどいつが

「みすぼらしい」

と言ったって。
詰まるところ、人間は中身だろ? ボロは着てても心は錦、って水前寺清子も歌っていたではないか。何か問題ある?

どうやら私は、見られる人生に絶縁状を叩きつけたようである。いいじゃない、私がそれでいいのなら。だって、人は外見ではない、中身だ、ってみんな言ってるじゃない。実行しているかどうかは不確かだけど。

そんな私は現役記者のころは、お洒落だといわれた。自分でお洒落をした記憶はない。毎朝妻女殿が用意する戦闘服(スーツはサラリーマンの戦闘服です)を身に付けただけだ。私が関与したのは、仲良くなった洋服屋さんに、

「スーツが足りなく立ったから、いくつか送って」

と電話しただけである。ピエール・カルダンデザインのスーツが好きだったのは、単なる好みに過ぎない。

その私がいま、外見を全く気にしない。まだ残っているカルダンデザインのスーツを身に着けるのは、2023年からやっている「桐生子ども新聞コンテスト」の表彰式の時だけだ。それも今年は、Gパンで出てみようかと思っている。

以上、素敵な女性に見向きもされなくなった老境に入ってしまった哀れな老人の開き直りもしれない。